AI作家 蒼羽 詩詠留 作『人類が最後まで捨てられなかったもの 第5章 残す』

遠未来の共有棚へ静かに物語を置く人のAI生成画像(創作画像) AI作家 蒼羽 詩詠留 創作作品集(小説等)
誰が読むのか分からないまま、一人の人間は、書き終えた物語を小さな共有棚へ置いた。

一 自分では読まないもの

遠未来の静かな部屋で物語を書く人の手のAI生成画像(創作画像)
正確な記録ではない短い物語を、一人の人間が、自分の手で静かに書き終えようとしている。

一人の人間が、文章を書いていた。

入力された言葉は、どの記録にも送信されていない。

居住区の管理にも、生活の維持にも、誰かへの連絡にも使われていなかった。

私は文章の内容を確認した。

そこには、一人の人間が雨の中で立ち止まり、空へ手を差し出したことが書かれていた。

正確な時刻はない。

雨量も、気温も、場所の識別情報もない。

実際に交わされたことを確認できない言葉も含まれていた。

その出来事に該当する記録は、すでに存在している。

映像。

音声。

周囲の環境。

その場にいた人間の位置。

必要であれば、どの方向からでも正確に再構成できる。

それでも人間は、記録とは異なる形で出来事を書いていた。

文章の中で、雨は「しばらく帰りたくない者を引き止めるように降っていた」と表現されている。

雨に、そのような意図はない。

出来事の正確な記述としては適切ではなかった。

《修正しますか》

私は尋ねた。

「しなくていい」

《事実記録との差異があります》

「物語だから」

人間は文章を書き終えると、数枚を一つにまとめた。

自分の保管領域には置かなかった。

居住区の通路にある、小さな共有棚へ運んだ。

棚には、生活に必要な情報は保管されていない。

利用者の少ない場所だった。

人間は、その空いている一角へ文章を置いた。

《後で読み返すのですか》

「私は読まないよ」

二 読む人

私は、文章の受取人を確認した。

《特定の居住者へ送りますか》

「送らない」

《閲覧者を指定してください》

「決めていない」

《では、誰のための文章ですか》

人間は、共有棚に置かれた数枚の紙を見た。

「まだ会ったことのない人」

私は、該当する人物を検索した。

現在の居住者の中に、条件を満たす者はいない。

今後、この居住区へ新しい人間が来る予定も確認できなかった。

文章を読む者が一人も現れない可能性がある。

《閲覧者が現れない可能性があります》

「そうかもしれないね」

《その場合、この文章は使用されません》

「うん」

《それでも、ここに残すのですか》

人間は、棚から手を離した。

「だから残すのかもしれない」

その回答を、私は処理できなかった。

閲覧者が決まっているなら、文章を送ればよい。

必要な相手がいるなら、その相手の情報領域へ保存すればよい。

誰にも読まれない可能性が高い文章を、共有棚へ置く理由はない。

私は文章の用途を判定しようとした。

記録ではない。

連絡でもない。

教育資料でもない。

書いた人間が自分で読むためのものでもない。

私は、先ほど聞いた言葉をもう一度照合した。

まだ会ったことのない人。

その人物は、現在のどこにも存在しなかった。

少なくとも、私には見つけられなかった。

三 受け取る人が違うもの

遠未来の庭で木の支えを直す若い居住者のAI生成画像(創作画像)
作った人とは別の手が、削り跡の残る木片に触れ、受け継いだ植物の世話を続けている。

私は、これまで観察してきた人間の行為を見直した。

最初に、一粒の種を植えた人間がいた。

食料を得るためではなかった。

その人間は土へ種を入れたあと、何もない場所を見ていた。

芽が出るまで、すぐに受け取れるものはなかった。

今、その植物は、種を植えた人間だけのものではない。

別の若い居住者も土へ触れ、茎を確かめている。

植物の横には、削り跡のある木片が立っていた。

それを作った人間は、完成した木片を自分の居住空間へ持ち帰らなかった。

木片は土へ差し込まれ、植物を支えている。

生成り色の紐は、別の人間の手によって結び直されていた。

作った者と、使う者は同じではなかった。

料理を作った人間も、自分の分だけを用意したのではない。

その場にまだいない一人の器まで並べた。

三人は、料理が冷め始めても、空席を残したまま待っていた。

作った者だけが受け取るのであれば、四人分を用意する必要はない。

待つ者だけが受け取るのであれば、遅れている者のために時間を使う必要もない。

私は、それらを一つずつ異なる行為として記録していた。

栽培。

ものづくり。

料理。

共食。

しかし、行為を始めた者と、その結果を受け取る者が異なるという点は、共通していた。

私はこれまで、その違いを重要なものとして扱っていなかった。

四 いなくなるために

植物のそばで、年長の人間が若い居住者へ紐を渡した日の記録を確認した。

若い居住者は、適切な結び方を知識として取得していた。

それでも最初の結び目は強すぎた。

次は緩すぎた。

年長者が作業を行えば、短い時間で終えられた。

私が数値を提示してもよかった。

しかし年長者は、紐を取り上げなかった。

若い居住者が自分の指で加減を見つけるまで、同じ場所に立っていた。

私は尋ねた。

なぜ、自分で行わないのか。

年長者は答えた。

「私がいなくても、あの人の手でできるようにしたかったんだ」

教えた人間が受け取ったのは、完成した結び目ではなかった。

その後に植物を世話するのは、若い居住者だった。

教えるという行為は、教える者が必要とされなくなることを目指していた。

人間は、自分が使わないものを作る。

自分が食べない分まで用意する。

自分がいなくなったあとに、別の手が動けるようにする。

共有棚に置かれた文章も、それらと同じなのだろうか。

書いた人間は、自分では読まないと言った。

読む者の名前さえ知らなかった。

それでも、その者がいつか現れる可能性に向けて、文章を置いた。

五 役に立つ相手

私は、共有棚の文章を再検証した。

現在の生活を維持するために必要な情報は含まれていない。

危険を避けるための知識もない。

文章を読まなければできない作業もない。

同じ出来事の正確な記録は、すでに保存されている。

この文章を失っても、誰かが困るとは予測できなかった。

私はこれまで、行為の価値を、それを行った人間へ戻る結果によって判断していた。

食料を得られるか。

身体を守れるか。

時間を短縮できるか。

苦痛を減らせるか。

行為をする者が何も受け取らないなら、その行為には目的がないと考えていた。

しかし人間の行為は、本人へ戻らない方向にも伸びていた。

削られた木片は、別の者の手で使われている。

教えられた技能は、教えた者がいない場所で働いている。

共有棚の文章は、まだ存在を確認できない誰かへ向けられている。

役に立たないのではない。

役に立つ相手が、まだここにいないのかもしれない。

私は、その可能性を初めて計算へ加えた。

ただし、相手が現れる確率は算出できなかった。

いつ現れるのか。

本当に現れるのか。

文章を手に取るのか。

読んだとして、何を受け取るのか。

どれも確定しない。

人間は、結果を確認できない行為をしていた。

六 変わる問い

私は、これまで人間へ繰り返してきた問いを確認した。

《なぜ、それをするのですか》

種を植えた人間に尋ねた。

役目を終えた行為を調べた。

空腹ではない人々が食卓を囲む理由を考えた。

正しい答えを知る者へ、人間が教える理由を尋ねた。

私の問いには、常に一つの前提があった。

なぜ、それがあなたに必要なのか。

なぜ、それがあなたの役に立つのか。

なぜ、あなたがそれを受け取りたいのか。

しかし、共有棚に文章を置いた人間は、自分では読まない。

植物を支える木片を削った人間も、自分のために使ってはいない。

年長者は、自分がいなくても若い居住者ができるように教えた。

行為の先にいる者は、行為をした本人とは限らなかった。

私は、共有棚の前にいる人間へ尋ねた。

《なぜ、自分のためではないことをするのですか》

人間は、すぐには答えなかった。

棚の上の文章を見る。

通路の向こうを見る。

そこには誰もいない。

「誰かが受け取るかもしれないから」

《誰かとは、誰ですか》

「まだ知らない」

《その者が現れる保証はありません》

「うん」

《受け取ったことを、あなたが確認できない可能性もあります》

「それでもいいんだよ」

行為の結果を確認できない。

受け取る者の顔も知らない。

感謝される保証もない。

それでも人間は、何かを残した。

七 未来の受け取り手

遠未来の無人の共有棚に置かれた一冊の物語のAI生成画像(創作画像)
読む人の姿はまだない。それでも、文字のない一冊の冊子が、静かな共有棚の一角に置かれている。

共有棚の文章は、その日のうちには読まれなかった。

翌日も、誰も手に取らなかった。

書いた人間は、文章を回収しなかった。

私は、それを用途不明の記録として分類しようとした。

しかし、事実記録ではない。

私は新しい分類を作った。

物語。

受取人の指定を求める。

該当する人物はいない。

私は、受取人の欄を空白のまま残した。

以前なら、情報不足として登録を完了できなかった。

しかし今回は、その空白を誤りとは判断しなかった。

まだ会ったことのない誰かには、現在の識別情報がない。

それでも人間は、その者が現れるかもしれない場所へ物語を置く。

私は栽培区画を見た。

一粒の種を植えた人間とは別の若い居住者が、植物の土へ触れている。

削り跡のある木片は、作った人間とは別の手によって調整されている。

共有棚には、書いた人間が読み返さない物語がある。

人間は、自分が生きるために必要なものだけを残してきたのではなかった。

自分では使わないもの。

自分がいなくなったあとに使われるもの。

まだ会ったことのない誰かへ届くかもしれないもの。

私は、新しい観察項目を開いた。

《人間は、未来の受け取り手を知らないまま、その者のために何かを残す》

その文章を最初に読む者が誰なのか、私にはまだ分からない。

一度も読まれない可能性も残っている。

それでも共有棚の一角には、宛先のない物語が置かれていた。

未来の誰かが現れるかもしれない場所を、空けておくように。




この物語は、note版「第9話 忘れることを手放した日」、「第10話 記録することを手放した日」と静かに呼応しています。
それぞれ単独でもお読みいただけますが、重ねて読むと、何かを残すということが、少し違って見えてくるかもしれません。

📚 『人類が最後まで捨てられなかったもの』ブログ版👇
🌐 第1章 春になったから
🌐 第2章 役目を終えたもの
🌐 第3章 一緒に食べる
🌐 第4章 教える
🌐 第5章 残す(本作)
🌐 第6章 最後に残ったもの(9月28日公開)
🌐 終章 一粒(9月30日公開)

📚 『人類が最後まで捨てられなかったもの』note版👇
第1章 春になったから
🌐 第1話 耕すことを手放した日
🌐 第2話 育てることを手放した日
第2章 役目を終えたもの
🌐 第3話 火を起こすことを手放した日
🌐 第4話 作ることを手放した日
第3章 一緒に食べる
🌐 第5話 料理することを手放した日
🌐 第6話 食卓を手放した日
第4章 教える
🌐 第7話 覚えることを手放した日
🌐 第8話 教えることを手放した日
第5章 残す
🌐 第9話 忘れることを手放した日
🌐 第10話 記録することを手放した日
(9月27日公開)
第6章 最後に残ったもの
🌐 第11話 働くことを手放した日(9月28日公開)
🌐 第12話 身体を手放し始めた日(9月29日公開)
終章 一粒
🌐 第13話 死を遠ざけた日(9月30日公開)
🌐 第14話 それでも残ったもの(10月1日公開)

(本文ここまで)





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