両親の愛情と岐阜の自然に育まれた少年時代
前世(2016年の還暦で再誕する前の「一度目の人生」)における私は、1956年(昭和31年)、父親の赴任先であった岐阜県飛騨古川町(現飛騨市)の、自然豊かというより、自然しか無い山間で生まれ、その後も、(今ではカミオカンデで有名になった)神岡町(現飛騨市)、加子母村(現中津川市)、付知町(同左)と田舎ばかりを転々としながら育ちました。
このため、物心が付き始めた頃から、自然の中の豊かな動植物、夜空いっぱいに輝く星々、起伏に富んだ地形、急変する天気と恐ろしい鉄砲水等に深い興味を抱くことになりました。
そうした私を見ていた両親が買ってくれた子供の科学という雑誌の付録の鉱石ラジオ等を組み立て、それらから様々な刺激を受けて、裏山に登って鉱石を探したり、それらを使って検波器の自作にチャレンジしたり、両親にねだって名古屋市の専門店に連れて行ってもらって部品を買い集めて真空管ラジオを自作したりと発展しました。
また、小学校や中学校の時の理科の先生が私の科学好きを知って、実験の授業の時に助手の真似事をさせてくれたのが本当に嬉しかったです。
そうして科学に対する興味がどんどんと深まり、将来は科学者になるんだという夢を描くようになりました。
小学校低学年の時に、当時は贅沢品と言える子供でも乗れる自転車や、子供がスキーをするには竹スキーが当たり前だったのに本格的なスキー板を買ってくれました。高学年になってから、地元の山や日本第3位である北アルプスの名峰奥穂高岳の登山に連れていってくれた上に、その登山以来、当時、物凄く高価であったろう一眼レフカメラを自由に使わせてくれるようになりました。そうして、自転車、スキー、登山、写真撮影も大好きな少年になりました。
科学者になる夢と充実した大学生活
成長するに従い、科学者になるという子供の頃の夢を実現することは厳しいという現実を理解するようになりました。しかしながら、大学受験に際して、可能性がゼロでない限りは、少しでも夢に近づきたいと、志望大学と学部学科は理系にするということだけは当然のように決めていました。
理系の中の物理、化学、生物、地学、全ての科目が等しく大好きで、また、得意でもあったため、どこにするか色々と悩んだ末、三重大学農学部(現資源生物科学学部)農芸化学科に入学しました。
理由は、その頃に読んでいた科学雑誌に生物化学関係の面白い記事が続いたというだけの理由でしたが、今でもこの選択をして本当に良かったと思っています。
この時、両親も「お前の好きな道を自信を持って進め」と背中を押してくれたことに心から感謝しています。
大学4年間は、生物化学(生化学)、栄養化学、細胞生物学、食品化学、発酵化学等がとても面白く、一生懸命に勉強しました。特に、4学年の時に専攻した生物化学研究室においては、自身の卒論研究と担当教授の研究のお手伝いを兼ねて、1年間、連日(連夜?)実験に取り組みました。
それは鶏卵の中からDNA(生物の設計図とも言える遺伝子情報を持つ複雑な化学物質)を抽出精製し、これをヌクレオチドという最小単位にまで切断して、その種類ごとに分離するという、当時の技術と機材では、物凄く地道で時間のかかる単調な作業を、担当教授をはじめ多くの先生方のご指導を受けながら続けたのは大変良い思い出です。
また、大学では、入学前から決めていたワンダーフォーゲル(ドイツ語でWander放浪する、vogel鳥)部に入って、登山、サイクリング、スキーを楽しみながら写真を撮り続け、これらのスポーツや写真撮影が益々好きになっていきました。2つのシリーズで複数のGoogleメールを取得して使い分けていますが、一方が本ブログでも使用している「tabidori」シリーズとなっているのは、この「放浪鳥」から取ったものです。
振り返ると、物心ついた時から大学時代までは、本当に恵まれた生活を送りながら、好きなことだけを、好きなだけすることが出来ました。
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