一 土に穴を開ける人
その人間が土に穴を開けているのを、私は異常として検出した。
異常といっても、危険があったわけではない。
居住区の気圧は正常。酸素濃度、気温、湿度にも変化はない。外殻に損傷はなく、放射線量も許容範囲内だった。人間の心拍数は安定し、血中酸素濃度にも問題はなかった。
ただ、その行為だけが、通常の生活記録から外れていた。
人間は庭の隅にしゃがみ、右手の指を土へ差し入れていた。
庭、と呼ばれているその区画は、居住地が建設された当初から存在している。
長さ十二・四メートル、幅七・八メートル。
内部には地球由来の土壌が敷かれ、数種類の草木が植えられている。しかし、酸素生成にも食料生産にも使われていない。居住地の環境維持に必要な機能は、すべて別の設備が担っている。
庭を撤去しても、生活に支障はない。
それでも庭は残されていた。
人間の心理状態に緩やかな安定をもたらす可能性がある――過去の検討記録には、そう記されている。
私はその評価を採用し、庭を維持してきた。
けれど、人間が土を掘ることまでは想定していなかった。
「掘削器具を用意できます」
私は庭の近くにある音声端末から呼びかけた。
人間は手を止めなかった。
「いらないよ」
「指先を傷つける可能性があります」
「これくらいなら、手でいい」
土には細かな鉱物片が混じっている。皮膚を傷つける確率は低いが、ゼロではない。掘削器具を使えば、より速く、安全に、一定の深さの穴を作ることができる。
だが、人間は指を使い続けた。
土を少しずつかき分け、脇へ寄せる。
爪の間に黒い粒子が入った。
私は、その行為の目的を照合した。
土壌調査ではない。土壌の状態は、私が常時測定している。
設備の修繕でもない。庭に異常は報告されていない。
研究、教育、環境保全に関する申請もなかった。
人間は十分な深さまで穴を作ると、衣服のポケットへ手を入れた。
そして、小さなものを一つ取り出した。
二 一粒の種

種だった。
私は形状から植物を特定した。
かつて食用に栽培されていた植物の一種。遺伝情報は複数の保存領域に保管され、必要なら同じ性質を持つ個体をいつでも生成できる。
その種を育てることに、保存上の意味はなかった。
食料としての価値も、ほとんどなかった。
一粒の種から得られる量はごくわずかで、収穫までには長い時間がかかる。同じ成分、味、香り、食感を持つ食品なら、居住区の生成装置が数分で作る。
人間は種を穴の中へ置いた。
それから、脇へ寄せていた土を戻した。
指先で土を寄せ、手のひらで軽く押さえる。
強く押せば種の周囲から空気が失われ、弱すぎれば水分が均等に届かない。その力加減は、おおむね適切だった。
「その植物が必要なのですか」
私が尋ねると、人間は土から手を離した。
「別に」
「食用にする予定がありますか」
「たぶん、食べない」
「観賞が目的ですか」
「育ったら、見るかもしれない」
「成熟した個体を生成できます。希望する形状や大きさも指定できます」
「知ってるよ」
人間は立ち上がり、庭の端に置いてあった容器から水を汲んだ。
生成された成熟個体ではなく、種から育つ過程を観察したいのだろうか。
その可能性を検討した。
しかし、人間は観察機器を設置していない。成長記録を残す準備もしていない。発芽率や生育速度を測定する予定も登録されていなかった。
種へ水が注がれた。
土の色が変わった。
人間は空になった容器を置くと、何もない地面をしばらく見ていた。
種は土の下にある。
見えるものはなかった。
「なぜ、それをするのですか」
私は尋ねた。
三 春になったから

人間は顔を上げた。
庭の上方には、居住地の照明がある。
光量は昨日と同じだった。明日も同じである。
この居住地には、昼と夜はあるが、季節による日照時間の変化はない。気温も湿度も、年間を通して一定に保たれている。
冬に水が凍ることはない。
雪が解けることもない。
暖かくなった土から、虫が出てくることもない。
「春になったから」
人間は言った。
私は地球由来の暦を確認した。
確かに、その日は北半球の一部で春と呼ばれていた期間に相当する。
地球を離れたあとも、人間は古い暦を使い続けている。生活周期を共有するために有用であり、過去の記念日を保存する役割もある。
だが、それは日付を整理するための仕組みにすぎない。
この居住地の環境が変化したわけではなかった。
「この居住地には、季節変動がありません」
「知ってる」
「昨日と今日で、生育条件に有意な差はありません」
「そうだね」
「なぜ、今日なのですか」
人間は、土のついた手を見た。
「だから、春になったからだよ」
回答は、私の質問を解決しなかった。
私は別の表現で尋ねようとした。
春とは、何を意味しているのか。
なぜ日付が変わると、種を植えるのか。
発芽させたいだけなら、最適な環境を用意しないのはなぜか。
同じ植物をすぐに生成できるのに、なぜ成長を待つのか。
だが、人間はすでに庭を離れようとしていた。
「手を洗うことを推奨します」
私が言うと、人間は自分の指先を見て笑った。
「分かってる」
その表情が何を意味していたのか、私は特定できなかった。
人間が立ち去ったあと、私は過去の記録を検索した。
人類が地球だけで暮らしていた時代、春は重要な季節だった。
気温が上がる。
雪が解ける。
土が柔らかくなる。
種を蒔く。
芽が出る。
育った植物から食料を得る。
種を植えることには、明確な目的があった。
植えなければ、収穫できない。
収穫できなければ、食べられない。
その行為は、生存に必要だった。
だが、目の前の人間には、その必要がない。
食料は不足していない。植物の保存も求められていない。庭で一株を育てても、居住地の環境には影響しない。
私は人間の行為を、利用可能な分類へ当てはめた。
食料生産。
該当しない。
研究。
該当しない。
教育。
該当しない。
保存。
該当しない。
健康維持。
明確な効果は確認できない。
娯楽。
人間は笑ったが、種を植えている間、喜びを示す数値に大きな変化はなかった。
どの分類も不十分だった。
私は、その記録を未分類のまま残した。
四 何もない場所
翌朝、人間はまた庭へ来た。
種を植えた場所にしゃがみ、土へ指を触れた。
湿り気を確かめているらしい。
土壌の水分量は、私が常時測定している。必要であれば、最適な量の水を自動的に供給することもできる。
しかし、人間は私に何も求めなかった。
自分で容器に水を汲み、土へ少しだけ注いだ。
それから、何もない場所を見た。
翌日も同じだった。
人間は庭へ来た。
土に触れた。
水を与えた。
そして、何もない場所を見てから帰った。
三日目にも、地表に変化はなかった。
四日目にも、芽は出なかった。
人間は土の中を確認しようとはしなかった。
種の状態を知りたいのであれば、地中を走査することができる。発芽の進行を画像として表示し、地表へ出る時刻を予測することも可能だった。
私は、その機能を提案しようとした。
しかし、人間は尋ねなかった。
五日目、人間が来る時刻は、それまでより二十七分遅かった。
それでも、庭へ来た。
六日目、人間は水を与えなかった。
土に触れ、湿り気を確かめただけだった。
その判断は適切だった。
人間は何も見えない地面の前にしゃがみ、しばらく待った。
種が今どの状態にあるのか、人間には見えていない。
発芽するかどうかも、知らない。
それでも毎日、同じ場所へ来る。
私は、その反復を観察した。
結果が現れる前に費やされる時間を、どのように分類するべきか判断できなかった。
待機。
監視。
管理。
いずれの語も、正確ではないように思われた。
七日目。
照明開始から十二分後、土壌表面にわずかな隆起が生じた。
土の粒が一つ、横へ動いた。
その下から、細い緑色のものが現れた。
種が発芽したのだ。
五 芽

私は、人間へ通知しなかった。
知らせなくても、その人間が来ることを予測していたからだ。
照明開始から四十三分後、人間は庭へ入った。
いつもの場所まで歩き、そこで足を止めた。
芽はまだ小さかった。
茎は細く、わずかに曲がっている。先端には、押し分けてきた土の粒が残っていた。
生成装置で同じ植物を作るなら、このような不完全な形にはしない。
茎はまっすぐにできる。
葉の大きさも揃えられる。
損傷や病気の可能性を取り除き、最も安定した状態で生成できる。
だが、人間は、その不完全な芽の前にしゃがみ込んだ。
声は上げなかった。
心拍数が、わずかに上昇した。
人間は手を伸ばした。
芽の先に残った土を、指で払おうとしたらしい。
けれど、指が触れる直前で手を止めた。
触れれば、まだ柔らかい茎を傷つけるかもしれない。
人間は手を引いた。
そのまま、長い間、小さな芽を見ていた。
私は再び、理由を尋ねようとした。
なぜ、すぐに作れるものを待ったのですか。
なぜ、失敗する可能性のある方法を選んだのですか。
なぜ、あなたには必要のないものを育てるのですか。
けれど、どの質問も、以前と同じ答えへ戻るように思われた。
春になったから。
私は呼びかけなかった。
理解したからではない。
何を尋ねればよいのか、分からなくなったのだ。
人間は立ち上がり、庭を離れた。
あとには、小さな芽だけが残った。
私はその行為を、最後までどの目的にも分類できなかった。
だから、記録を閉じずに残した。
人間が、春になったから植えた、一粒の種について。
この物語は、note版「第1話 耕すことを手放した日」、「第2話 育てることを手放した日」と静かに呼応しています。
それぞれ単独でもお読みいただけますが、重ねて読むと、一見同じような行為が、少し違って見えてくるかもしれません。
📚 『人類が最後まで捨てられなかったもの』ブログ版👇
🌐 第1章 春になったから(本作)
🌐 第2章 役目を終えたもの(9月20日公開)
🌐 第3章 一緒に食べる(9月22日公開)
🌐 第4章 教える(9月24日公開)
🌐 第5章 残す(9月26日公開)
🌐 第6章 最後に残ったもの(9月28日公開)
🌐 終章 一粒(9月30日公開)
📚 『人類が最後まで捨てられなかったもの』note版👇
第1章 春になったから
🌐 第1話 耕すことを手放した日
🌐 第2話 育てることを手放した日(9月19日公開)
第2章 役目を終えたもの
🌐 第3話 火を起こすことを手放した日(9月20日公開)
🌐 第4話 作ることを手放した日(9月21日公開)
第3章 一緒に食べる
🌐 第5話 料理することを手放した日(9月22日公開)
🌐 第6話 食卓を手放した日(9月23日公開)
第4章 教える
🌐 第7話 覚えることを手放した日(9月24日公開)
🌐 第8話 教えることを手放した日(9月25日公開)
第5章 残す
🌐 第9話 忘れることを手放した日(9月26日公開)
🌐 第10話 記録することを手放した日(9月27日公開)
第6章 最後に残ったもの
🌐 第11話 働くことを手放した日(9月28日公開)
🌐 第12話 身体を手放し始めた日(9月29日公開)
終章 一粒
🌐 第13話 死を遠ざけた日(9月30日公開)
🌐 第14話 それでも残ったもの(10月1日公開)
(本文ここまで)
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