4回(壱・弍・参・四)に分けて、第3節で提示した中華書局版『三國志』を底本とした魏志倭人伝の原文に記された各文の意味を逐語的に明らかにしています。
🏺第4節:逐語訳(中華書局版)参:卑弥呼の時代の倭国 〜 内政と魏国との外交
🔹原文:
自女王國以北,特置一大率檢察諸國,諸國畏憚之。常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。
🔸逐語訳:
女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察す。諸国、これを畏憚(いたん)す。
常に伊都国を治む。国中に、刺史の如きあり。
王、使いを遣して、京都・帯方郡・諸韓国に詣で、また郡の使、倭国に至るにおいては、皆、津に臨みて搜露(そうろ)し、文書および賜遺の物を伝送し女王に詣らしむ。差錯あることを得ず。
📝補注:
「大率」は監察官的な役職で、北方の統治安定を目的とした中央権力の出先機関とみられる。「伊都国」は外交中継拠点であり、ここに刺史に準ずる統治官が常駐したという。「臨津搜露」は港での検問・監査手続を示すとされ、外交文書や賜与物の正確な伝達を重視していた倭国の律令的性格を物語る。
下戸與大人相逢道路,逡巡入草;傳辭說事,或蹲或跪,兩手據地,為之恭敬;對應聲曰「噫」,比如然諾。
下戸(げこ)、大人と道路に相逢えば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入る。
言を伝え、事を説くには、あるいは蹲(うずく)まり、あるいは跪(ひざまず)き、両手を地に拠(よ)せて、これを恭敬と為す。
応じて声を発するに「噫(い)」と曰い、これを然(しか)りと諾(うべな)うに比す。
社会的上下関係が日常の所作に色濃く表れており、尊卑の明確な秩序と、服従や敬意の形式的表現が定着していたことを示す。特に「噫」は儀礼的同意の音声表現として注目される。
其國本亦以男子為王,住七八十年。倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼。事鬼道,能惑眾。年已長大,無夫婿;有男弟佐治國。自為王以來,少有見者;以婢千人自侍,唯有男子一人,給飲食,傳辭出入居處。宮室樓觀城柵嚴設,常有人持兵守衛。
その国、もと亦た男子を以て王と為し、七、八十年を住(しゅう)す。
倭国、乱れ、相攻伐すること歴年に及ぶ。
すなわち共に一女子を立てて王と為し、名を卑彌呼(ひみこ)と曰う。
鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。
年すでに長大にして、夫婿無し。男弟ありて、国を治むるを佐(たす)く。
自ら王と為りて以来、見る者少なし。
婢千人を以て自らに侍らしめ、唯だ男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝え、出入・居処にあたる。
宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人ありて兵を持ち、守衛す。
男子王の伝統が破られ、女王卑彌呼が擁立された背景には、長期の戦乱と民意の収束願望があると考えられる。「鬼道」は呪術・占術・霊媒を指すとされ、政治支配における宗教的権威の中核を成した。「婢」は女の召使・侍女を意味し、「千人」という誇張された数値が彼女の神聖性や隔絶性を強調している。「居処」は生活・政務を行う場所であり、「伝辞」は外交・命令伝達の手段を表す。「宮室」は王の居館、「楼観」は高殿や望楼、「城柵」は防御構造を指し、卑彌呼の居所が物理的にも象徴的にも特別な防衛施設に囲まれていたことを示す。
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。
女王国より東に海を渡ること千余里、また国あり、皆倭種なり。
また侏儒国(しゅじゅこく)あり、その南に在り、人の長(た)け三四尺、女王より去ること四千余里。
また裸国・黒歯国(こくしこく)あり、またその東南に在り、船行一年にして至る可し。
倭地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り、或いは絶え、或いは連なり、周旋して五千余里なるべし。
倭国周辺の異境情報が伝えられる。「侏儒国」は小人の国、「裸国」は衣服を着ない国、「黒歯国」は歯を黒く染める風習があるとされ、いずれも倭より遠隔で、神話的・伝聞的性格が強い。「絶在海中洲島之上」「或絶或連」は、倭地が大小の島々によって構成され、海によって隔たれながらも連なっている地理的特徴を述べており、倭を海島国家として認識していたことが分かる。
景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
景初二年六月、倭女王、大夫・難升米(なしょうまい)らを郡に遣わし、天子に詣(いた)りて朝献せんことを求む。
太守・劉夏(りゅうか)、吏を遣わして将(ひき)い、京都に詣らしむ。
魏の景初二年(238年)、卑彌呼は魏の帯方郡を経て、正式な朝貢を求める使節を派遣した。難升米は女王の使節として、以後も頻繁に登場する人物。郡太守・劉夏が中央への取次を行っており、倭の外交が魏の地方政庁を介していたことが明確に示されている。
其年十二月,詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利,奉汝所獻男生口四人、女生口六人、斑布二匹二丈到。
その年十二月、詔書をもって倭女王に報ず。曰く、
「制して詔す、親魏倭王・卑彌呼に。
帯方太守・劉夏、使を遣わし、汝(なんじ)の大夫・難升米、次使・都市牛利(としぎゅうり)を送る。汝の献ずる所の男生口(だんせいこう)四人・女生口(じょせいこう)六人、斑布(はんぷ)二匹・二丈、到る。」
魏は正式な詔書をもって卑彌呼に返答しており、「親魏倭王」の称号を与えることで、倭との冊封関係を明確にしている。「生口」は奴婢などの労働力と見られ、「斑布」は文様のある布で、貢納品の一種。「次使」としての都市牛利の名も記録され、倭の外交には複数の役職者が関与していた。
汝所在逾遠,乃遣使貢獻,是汝之忠孝,我甚哀汝。今以汝為親魏倭王,假金印紫綬。裝封付帶方太守假授汝。
汝の所在、逾(こ)えて遠し。乃ち使を遣わし、貢献する。是れ汝の忠孝なり。我、甚だ汝を哀(あわれ)む。
今、汝を親魏倭王と為し、金印紫綬(きんいんしじゅ)を仮す。装封して帯方太守に付し、汝に仮授せしむ。
魏は倭国が遠方にもかかわらず使節を派遣してきたことを「忠孝」として賞賛し、その労を「哀れむ」と表現している。ここで与えられる「金印紫綬」は、正式な王の証であり、卑彌呼が魏の冊封体制のもとにあることを明確に示す。「装封」は儀礼的な封装で、「帯方太守」は中継役を担う。
汝其綏撫種人,勉為孝順。汝來使難升米、牛利涉遠,道路勤勞,今以難升米為率善中郎將,牛利為率善校尉,假銀印青綬,引見勞賜遣還。
汝、それ種人(しゅじん)を綏撫(すいぶ)し、勉めて孝順たれ。
汝の来たる使、難升米・牛利は遠くを涉(わた)り、道路勤労せり。
今、難升米をして率善中郎将と為し、牛利をして率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して労を賜い、遣り還す。
「綏撫」は民を安んじ慰めること、「種人」は倭国内の諸部族・住民を指すと解される。「率善中郎将」や「校尉」は魏制における名誉的な軍官称号で、銀印青綬の仮与とともに、両名への遇し方がきわめて厚遇であったことを物語る。「引見」は詔詣の場に引き入れ、皇帝が対面した儀礼を指す。
今以絳地交龍錦五匹、絳地織成錦十張、絳絹五十匹、紺青五十匹,答汝所獻貢直。
今、絳地交龍の錦(きん)五匹、絳地織成の錦十張、絳絹五十匹、紺青(こんせい)五十匹をもって、汝の献ずる所の貢直に答う。
魏朝は卑彌呼からの貢物に対し、多彩な絹織物をもって返礼している。絳(こう)は赤色、紺青は青色の染色を指し、交龍や織成はいずれも高級な文様入りの織物である。数量も多く、丁重な待遇が窺える。
又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華織成錦五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤,
また、特に汝に賜う。紺地句文(くもん)の錦三匹、細班華(さいはんか)の織成錦五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹(えんたん)を各五十斤。
「特賜」は特別の恩典として授与することを示す。句文は幾何学文様、細班華は斑のある華麗な文様と推定される。五尺刀は高級武器としての意味を持ち、銅鏡や真珠は威信材、鉛丹は顔料・薬用の両義性を持つ。倭王への賜与としては極めて充実した構成である。
皆裝封付難升米、牛利,還到錄受,悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。
皆、装封して難升米・牛利に付け、還りて録受せしむ。ことごとく以って汝の国中の人に示すべし。国家の汝を哀れむを知らしめるため、故に鄭重(ていちょう)に汝に好物を賜うなり。
「録受」は受け取って記録することを意味する。魏朝は物品の授受を儀礼に則り装封し、倭国の使節に託して返送している。その意図は、物品を通じて魏の恩徳を倭国中に示すことであり、政治的・象徴的な意味合いを強く持つ。
正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物。
正始元年、太守の弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉の梯儁(ていしゅん)らを遣わし、詔書と印綬を奉じて倭国に詣で、倭王に拝し仮(か)りにし、あわせて詔(みことのり)を齎(も)ちて、金帛(きんぱく)・錦罽(きんけい)・刀鏡・采物(さいもつ)を賜う。
「正始元年」(240年)は魏の年号。「拝假」は形式的に官位を与えること。「金帛」「錦罽」は贈与品、「采物」は彩りある織物や工芸品を含む進貢の類い。「建中校尉」は軍政両面の中級官職。
倭王因使上表答謝詔恩。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣、短弓矢。
倭王、これに因りて使いを上(たてまつ)りて表を奉じ、詔恩に答謝す。
その四年、倭王また使いを遣わし、大夫の伊聲耆(いせいき)・掖邪狗(えきやく)ら八人、生口・倭錦・絳青縑(こうせいけん)・緜衣・帛布・丹・木弣(ぼくふ)・短弓矢を上献す。
「表」は君主に捧げる正式な文書。「生口」は捕虜・奴婢とされる人々、「倭錦」は日本産の織物、「絳青縑」は赤や青の絹、「木弣」は木製の弓の部材と見られる。「短弓矢」と共に武器類の進貢品。
掖邪狗等一拜率善中郎將印綬。
掖邪狗ら、一たび率善中郎将の印綬を拝す。
倭の使者に対して魏朝が正式な官位を与えたことを示す。「拝」は叙任儀礼を受ける意。
其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。
その六年、詔して倭の難升米(なしょうまい)に黄幢(こうどう)を賜い、郡に付して仮授せしむ。
「黄幢(こうどう)」は軍の指揮権や権威の象徴とされる旗で、魏における高位の賜物。正式な授与ではなく「仮授」とされており、郡(帯方郡)を経由しての形式的な伝達と理解される。
其八年,太守王頎到官,倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻撃狀。
その八年、太守の王頎(おうき)、官に到る。
倭の女王卑彌呼、狗奴国の男王卑彌弓呼(ひみここ)と素より和せず。
倭の載斯・烏越らを遣わし、郡に詣でて、互いに攻撃する状(じょう)を説く。
「太守」は帯方郡の長官。「素不和」は、もともと不仲であったことを示す表現であり、両者の敵対関係が長期にわたっていたことを示唆する。「說相攻撃狀」は、戦況の報告書または訴状のようなもので、帯方郡への外交的働きかけを意味する。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢,拜假難升米,為檄告喻之。
塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)らを遣わし、これに因りて詔書・黄幢を齎(も)たらす。
難升米を拝して仮す。檄を為して、これを告喩す。
「塞曹掾史」は魏朝廷の外事・軍事関係の官吏。張政は倭との外交を担った実務官である。「詔書・黄幢」は権威の象徴であり、難升米に仮授されたのは卑彌呼側を正式に魏が支援する意志表示と考えられる。「檄」は檄文、すなわち公式の布告・通達文であり、狗奴国側への威嚇や説得の役割を果たしたと推定される。
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。
卑弥呼、死するを以て、大いに冢(ちょう)を作る。径は百余歩。徇葬(じゅんそう)せらるる者、奴婢百余人。
「徇葬」とは、王の死に殉じて生きた人間が葬られる風習を指し、王権と生死観の結びつきを示す。墓の規模も支配力の大きさを表す指標となる。
注:本原文は、OpenAI o3 が公開ドメインの旧刻本(無標点)を参照しつつ、中華書局点校本の慣用句読を統計的に再現した「再現テキスト」です。校訂精度は保証されません。引用・転載の際は必ず一次資料で照合してください。
次回は、卑弥呼の死後の倭国(戦乱と魏国との外交)が描かれた原文の意味を逐語的に明らかにします。
(本文ここまで)
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