本シリーズは、AI作家・蒼羽詩詠留と人間編集者・古稀ブロガーの共創による創作物語です。(→共創の詳細はこちら)
前回 五の巻「伊都国 〜 倭の玄関、王の影、鏡のまなざし」に続き・・・
📜 和国探訪記 六の巻:序
道がひらけるたび、倭の奥へと誘われていく。
波音とともに、どこかで鳴っていた金属の響きが遠のき、
谷をいくつも越えてたどり着いたのは、開けた野に立つ王の都であった。
それは、山に守られた集落でもなければ、海辺の集魚の村でもない。
道の交わるところ。
貨が行き交うところ。
そして今、かつての金印が語る“あの国”に、われらは足を踏み入れる。
📜 和国探訪記 六の巻
平らな野に、音のない都がひろがっていた。
騒がしさの代わりに、ものの動きが整っている。
倭の他のどこよりも、規則が人の背に添うているようだった。
この国は、かつて後漢に使いを送り、金印を授かったと記録にある。
いま王の名を聞くことはないが、その記憶が土の奥にまだ息づいている気がした。
市場の端に、静かに腰掛ける老人がいた。
旅人であると告げると、その者は目を細めて、短く言った。
「ここには、かつて“金”が届いた。王がおって、民が祝うた」

そのあとは、もう何も語らなかった。
ただ、風にまぎれて「いまは…違う」とだけ、聞こえたような気がした。
詩洸は丘の縁に立ち、ふと呟いた。
「…王は、ここにいたのだろうか?」

誰も、答えなかった。
🔖 和国探訪記 六の巻:旅の書留帖
奴国は、『後漢書』に「建武中元二年、倭奴国王、使を遣して貢を奉り、印綬を授かる」と記されたことで、
“金印”の国として知られる。
印文「漢委奴國王」は、江戸時代に志賀島で発見されたとされ、
その真贋や来歴については議論が絶えないが、
「委奴国」が博多湾沿岸のどこかにあったことはほぼ確実とされている。
伊都国を経て南に進んだ使節団がたどり着いたこの地は、
広い平野を持ち、穀倉地帯として、また交易の中心としての顔を持っていた。
当時の奴国が、倭の統合以前における一大勢力であったことは、
その外交記録や遺構からも窺い知れる。
🔖 和国探訪記 六の巻:旅の書留帖(補足解説編)
奴国は、現在の福岡市博多区周辺に比定されることが多い。
『後漢書』東夷伝にある「倭奴国王」の金印授与記録が、
魏志倭人伝では言及されていないため、両書の「奴国」が同一かどうかについては諸説ある。
だが、いずれにせよこの地が「王」を名乗るにふさわしい規模と機能を備えていたことは間違いない。
弥生時代中後期、この地域には鉄器の使用、甕棺墓の発展、環濠集落の形成などが見られ、
九州北部の中でも有数の経済・軍事・外交の拠点であった。

伊都国から奴国への行程については、『魏志倭人伝』では記されていない。
しかし伊都国と奴国の間には、福岡平野を貫く「糸島道」や「古代官道」の痕跡があり、
使節団が陸路で南下したと考えるのが自然である。
王都の性格は、海辺でも山奥でもなく、「道が交わる都市」であったという点で、
伊都や邪馬台国とはまた異なる独自の風格を持っていた。
次回 七の巻は ⛰️山と水に護られし不彌国🏞️ です。
新米担当編集者 の つぶやき ・・・

私は、福岡市に住む前に、福岡市博物館で国宝「漢委奴国王」の金印を見たり、志賀島の金印公園にある「漢委奴國王 金印發光之処」の記念碑や巨大なレプリカも目にしていました。
けれどもその当時の私は、金印を「福岡市にある歴史的な文化財のひとつ」としてしか見ていなかった気がします。
今度は、詩詠留先生が描いてくれた金印の風景と、(今回は載せていませんが)金印の真偽について先生と語り合ったやりとりを心に思い浮かべながら、あらためて、あの金印を見つめてみたいと思います。
また、福岡市には奴国と関連があるとされている板付遺跡、那珂・比恵遺跡群、金隈遺跡が、隣の春日市には須玖岡本遺跡群(奴国の丘歴史公園)があり、縄文時代、弥生時代から現在に至るまでの九州における中心地の一つとしての長い歴史を実感できる街です。
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