本シリーズは、AI作家・蒼羽詩詠留と人間編集者・古稀ブロガーの共創による創作物語です。(→共創の詳細はこちら)
前回 七の巻「奴国 〜 光武帝より金印紫綬を授かりし国」に続き・・・
📜 和国探訪記 八の巻:序 〜 投馬国、水行二十日の遥かなる旅路 〜
詩洸たちが不彌国(ふみこく)を発った後、しばし記録は絶える。
地に足のつかぬ水の道を、二十日ものあいだ漂うがごとくに進んだとされる。
私、蒼羽 詩詠留は、彼らが辿ったこの未踏の旅を、いま筆に写さんとす。
海図なき時代において、水行二十日とは、もはや神話の領域に等しい。
だが彼らは確かに、その果てに投馬国(つまこく)なる大いなる国を訪れている。
この国は、海上交易の要にして、倭国におけるもう一つの中枢。
時に女王国と並び語られ、時に対立の影も匂わす──
なぜ、女王国ではなく、まずこの地を訪れたのか。
なぜ、魏使としての使命を胸に、海路という最も困難な道を選んだのか。
私は、詩洸らがその目で見、その耳で聞き、その心で交わしたであろう数々の記憶を辿り、
この「投馬国」を、彼らの足跡とともに記すことにした。
地図には描けぬ、想像と検証の旅が今、始まる。
南へ──はるかなる大海原の向こうへ。
📜 和国探訪記 八の巻
壱 〜 水行二十日の旅、始まる 〜
不彌国を発った詩洸らは、陸に別れを告げ、大海へと漕ぎ出した。
海は静かだった。いや、あまりにも静かで、かえって不気味なほどだったという。
詩洸の記録はこのときから、断片と想像の狭間に沈んでいる。
だが私は知っている。彼がその静寂に緊張しながら、遠くに霞む水平線を睨み続けていたことを。
一行は、大型の和船を中心に、計三艘に分乗していた。
物資と兵を積み、帆を張り、舳先に旗を掲げる。
「信」の文字を染め抜いた布が、海風にひるがえる──
女王国に至る者にのみ、携えることを許された“証”であった。
航海の初日は順調であった。
潮流に乗り、南東へと舵を取る。
が、二日目から、空が変わった。
黒い雲が押し寄せ、空と海の境が溶け出す。

豪雨と逆風に翻弄され、詩洸の船は、しばし本隊と離れた。
荒れ狂う波の狭間で、船底にまで水が入り、舟子たちの手は血に染まる。
三日目の朝、濃霧がすべてを包んだとき、
詩洸は、舳先に佇むある人物を見たと書いている。
彼はそれを「光の衣をまとう白き人影」と記すだけで、それ以上のことは語っていない。
だが、その日を境に、海は再び穏やかになった。
七日目、彼らは南の孤島に一時寄港し、甘味のある果実と水を得た。
現地の言葉は通じなかったが、手振りと贈り物によって交歓が行われた。
その島の長老は、彼らの進む先に「偉大なる火の国」があると語ったという。
それが投馬国であったかは、今となっては定かではない──
十五日を過ぎたころ、詩洸たちの顔には疲労とともに覚悟が宿っていた。
「これは試練である」
誰かがそう呟いたとき、誰も否定しなかった。
女王国へ赴くためには、この海が越えるべき関門なのだと、全員が理解していた。
そして、二十日目の朝。
霧が晴れた水平線の彼方に、陸地が現れた。
それはただの海岸ではなかった──高台には櫓が立ち、港には楼閣が並び、
まるで都がそのまま海にせり出しているようであったという。
投馬国──
海の道を制する、大いなる国にして、倭国の別なる中枢。
彼らはついに、倭国の心臓の一つに辿り着いたのである。
私はこの港の姿を、詩洸らの記録と想像をもとに描き写した。
実際の風景は異なっていたかもしれないが、そこに宿る“志のかたち”を留めるために──。
弍 〜 投馬国 〜 海に開かれし大都 〜
投馬国──それは海とともに生きる国であった。
波に沿って築かれた港には、高床の楼閣が整然と並び、
人々は帆船を操り、荷を担ぎ、言葉を交わしていた。

詩洸らの船が港に入ると、太鼓の音が鳴り響き、
見張りの櫓から幟が掲げられた。
「他国よりの使節、信の使い」と、すでに伝わっていたのだ。
詩洸たちは、着岸の儀礼を経て、港の長屋に迎え入れられる。
そこには、投馬国の官人たちが整列していた。
彼らは無言で一行を観察し、合図一つで道をあけた。
その先には、漆黒の冠をいただく一人の男──
投馬国の首長が、黒曜石のような眼差しで立っていた。
「汝ら、海を越えて来たるは、女王の意なりや?」
詩洸は答える。
「我らは、はるか魏より倭国へと遣わされた使節。
この“信”は、海を越え、国と国とを繋ぐために託されたもの──
女王国へ向かう途上、各地の声を聴き、理解を深めることこそが、
その“信”を成す道であると考えております。」
首長は目を細め、静かに言った。
「なるほど──国と国の“信”を結ぶ布か。
まだ女王にも会わぬ者が、何を語るかと思うたが、
その姿に、争わぬ者の志を見た。
ならば我が民にも、その“信”を見せよ。
明日、市にて、そなたらの言葉を広く語るがよい。」
こうして、詩洸たちは港市に迎え入れられ、
翌日、市場の広場で、「信」とは何か──
国と国の間に生まれるべき誠意と理解の証であることを語った。
三日後、首長は言った。
「女王の意を、我らもまた受けよう。
ただし、我らは我らなりの道を行く。
それが、倭の国々のかたちにてあろう。」
詩洸は深く礼をし、布を懐に戻した。
その「信」は、次なる地──女王国へと向かう、その時まで。
🔖 和国探訪記 八の巻:旅の書留帖
水行二十日の彼方に見えたもの──投馬国という謎
魏志倭人伝に記された「投馬国」は、不彌国の南、水行二十日の距離にあるという。
この記述は、後世において多くの議論と想像を呼び、今も決着を見るには至っていない。
本記においては、以下のように二つの視点──学術的解釈と文学的再構成──を交差させることで、その存在に迫ろうと試みている。
🔹(一)既存学説に基づく構成
◉ 放射状記録説(伊都国中心構造説)
魏志倭人伝の国々の位置と日数は、単純な旅の道順ではなく、
伊都国を中心とした“放射状の距離記録”であるとする説がある。
つまり、投馬国や邪馬台国への「水行二十日」「陸行一月」などの記録は、
伊都国から個別に向かった場合の距離や所要時間を記している可能性がある。
この解釈に立てば、旅の順序と記録の順序は一致しないことがあり、
文献を読むうえでの前提そのものが再考を要する。
🔸(二)詩詠留による文学的補足構成
本記では、詩洸一行が実際に進んだであろう地理的連続性と旅の実感に重点を置き、
放射的記録説を前提としつつも、それを補完する以下の三層構造で描いている。
① 地理的連続性に基づく旅路の再構成
• 不彌国(筑後平野東部)から筑後川を下り、有明海を南下
• 八代海を通って投馬国(熊本県八代市周辺)へ到着
• そこから球磨川を遡り、山道を越えて、女王国(豊の国=日田・宇佐方面)へ
② 水行二十日の体感的意味
• 古代の航海は天候・潮・地形に大きく左右される
• 停泊、風待ち、補給、現地交渉などの日数も含んだ“実移動時間”
• 二十日という数字は、単なる距離ではなく、旅の試練としての象徴
③ 伝聞・誇張・象徴としての距離表現
• 魏志倭人伝は、倭人の語ることを記録した“伝聞資料”である
• よって「水行二十日」は、事実と想像と印象が織り交ざった数字でもある
• 特に異国間の外交旅路では、“信の重さ”を示す演出的表現としても機能した可能性がある
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このようにして、投馬国は単なる通過点ではなく、
「倭国のもう一つの中枢」として、その存在を浮かび上がらせている。
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◉ 「信」という旗が意味するもの
詩洸らが掲げた「信」の布は、
どの国のものであったのか──それはまだ、この時点では明らかにされていない。
だが確かなのは、それが争いではなく“和”を示す証(あかし)であり、
投馬国において、言葉によって人々と心を通わせたことで、
その旗は意味を持ち始めた、ということである。
国と国との間にこそ、“信”は必要なのだと──。
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◉ 女王国へ至るために
投馬国の首長は言った。
「我らは我らなりの道を行く」と。
この言葉の中にこそ、倭国が一つの国でありながらも、
多様で、個を持ち、連なる存在であることの真実がある。
そして、女王国へ向かう道とは、
力で従わせる道ではなく、信を通わせる旅の延長線上にある道なのだ。
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※ 添えられた投馬国の港市画像は、当時の資料や伝承をもとに、詩詠留が再構成した“想像復元図”である。
実景よりも壮麗に描かれている可能性があるが、それは倭国の海の中枢としての精神的象徴を表すためである。

詩詠留は、実際に魏国から倭国に旅をした訳ではなく、
この物語の主人公でもありませんが、
想像と記録のはざまを生きる影のような者として語っています。
この旅を読み終えた皆さまが、それぞれの記憶と重ね合わせてくださることを願って──。
📓 旅の書留帖
(本文ここまで)
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次回 九の巻は 女王国・邪馬台国にて 〜 詩洸の記📜 です。
新米担当編集者 の つぶやき ・・・
この物語を始めるにあたり、詩詠留先生との間で、「邪馬台国の比定地について九州説に基づくこと」と「その比定地は物語を書き進めながら明らかにすること」だけを決め、私としては「詩詠留先生が魏志倭人伝に登場する地名の比定地をどこにするのか」を非常に楽しみにしていました。
そして、前回七の巻のつぶやきに「不彌国以降は比定地の見解が末広がりに広くなり、私は行ったことはあっても詳しくは知らない地域なので先生の描写がとても新鮮に感じています。」と書きました。今回の投馬国については、九州説の多くが根拠としている放射的記録説(放射説)を前提として物語を進めるだろうと予想していましたが、距離ではなく、豪雨と逆風に翻弄されて航海(水行)に20日を要したという新説を披露し、私の予想を見事に覆してくれました。
また、魏志倭人伝には具体的な記述がほとんどなく、他の関連資料もない投馬国について、倭国における位置付け、邪馬台国との関係等について、具体的、かつ、説得力を持って描写してくれました。
私など足元にも及ばない詩詠留先生というAIの推論力や、創造力、想像力についての驚きが増すばかりです。
なお、前回七の巻のつぶやきに『「敢えて、疑問を抱かせるような原稿を示して、私にも意見を言わせてやろう。」との配慮かもしれない。』と書きましたが、今回は更に私の頭を悩ませるような原稿を提示され、もしかすると、私の知識や読解力を試されているのかとも思えてきました。
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