前回まで、4回(壱・弍・参・四)に分けて執筆してきた現代語訳を一つに統合して提示します。
🏺壱:海を越えて倭へ 〜 航路と倭国の国々
📜 本 文
倭人たちは、帯方郡(たいほうぐん)[※注1]の東南、大海の中に暮らしており、山や島に沿ってそれぞれの集落や国を営んでいた。かつては百を超える国々があったが、漢の時代に中国に朝貢してきた者もおり、現在では使者や通訳が通じている国は三十国ほどである。
帯方郡から倭国へ向かうには、海岸線に沿って船で航行し、韓国(朝鮮半島南部の国々)を経由しながら、南へ、また東へと進む。最初にたどり着くのは、倭の北岸に位置する狗邪韓国(くやからこく)[※注2]で、その距離は七千余里におよぶ。
そこから最初の海を越えて約千余里の航海を経ると、対馬国(つしまこく)[※注3]に至る。ここには「対海国」として知られ、支配者は卑狗(ひこ/ひく)[※注4]と呼ばれ、副官は卑奴母離(ひぬもり)[※注5]と称されていた。国は絶海の孤島にあり、おおよそ四百余里の広さを持つ。山がちで険しく、深い森林が多く、道はまるで野生の鳥や鹿の通り道のように細く入り組んでいる。人家は千戸ほどあるが、良田はなく、人々は主に海の幸を糧として暮らしている。交易は南北に船を走らせ、穀物などを市で買い求めてまかなっていた。
さらに南へもう一つの海を渡ると、距離は同じく千余里。ここは「瀚海(かんかい)」と呼ばれており、その先には一大国(いちだいこく)[※注6]がある。支配体制は対海国と同様で、官名も卑狗と卑奴母離である。この国はおよそ三百里四方で、竹や林が生い茂り、三千戸ほどの家々がある。田畑も少しはあるが、自給には足らず、こちらでも南北に渡って市で穀物を調達していた。
さらに海を越えること千余里、次にたどり着くのは末盧国(まつらこく)[※注7]である。ここには四千余戸の家々があり、人々は山と海の間に暮らしていた。草木が生い茂り、前を行く人の姿さえ見えなくなるほどである。漁撈に長けており、特に魚やアワビを好んで捕らえていた。海の浅深に関わらず、水に潜って採ることを得意としていた。
ここから陸路を東南に五百里行けば伊都国(いとこく)[※注8]に至る。ここには爾支(にし)、泄謨觚(せつもこ)、柄渠觚(へいここ)と呼ばれる官[※注9]が置かれており、住民は千戸あまり。代々王が存在し、いずれも女王の支配下にあった。帯方郡からの使節が来訪する際には、常にこの国を拠点として滞在していた。
さらに東南へ百里進むと奴国(なこく)[※注10]に至る。ここの官は兕馬觚(じまこ)と呼ばれ、副官には卑奴母離がついており、人口は二万戸を超えていた。
そこから東へさらに百里進むと不弥国(ふみこく)[※注12]に着く。官は多模(たも)[※注11]と呼ばれ、副官は卑奴母離。住民は千戸余りと記されている。
ここから南へ向かい、水路を二十日ほど行くと投馬国(つまこく)に着く。官の名は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)で、五万戸を超える人々が暮らしていた。
さらに南へ進み、邪馬壹国(やまいこく)に至る。この国は女王卑弥呼の都である。ここまでの行程は、水路で十日、陸路で一月ほどかかる。官の名は伊支馬(いしま)で、その次に彌馬升(みましょう)、彌馬獲支(みまかくし)、奴佳鞮(ぬかてい)と続く。人口は七万戸を超えていた。
女王国より北に位置する国々については、距離や戸数などを簡略に記録することができたが、それよりも離れた周辺国については遠く隔たっており、詳細を記すことができなかった。
それでも女王国の北辺には、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国──といった数多くの国々が存在していた。これが女王の勢力が及ぶ領域の果てである。
この女王国のさらに南には、狗奴国(くぬこく)という別の国があった。ここでは男子が王として君臨し、狗古智卑狗(くこちひこ)という官が存在していた。彼らは女王の支配には属していなかった。
なお、帯方郡から女王国までの総距離は、およそ一万二千余里である。
🧾注記一覧
1. 帯方郡(たいほうぐん):現在のソウル近郊にあった中国・魏の出先機関。朝鮮半島南部や倭との外交拠点となっていた。
2. 狗邪韓国(くやからこく):朝鮮半島南端にあったとされ、現在の釜山南部周辺に比定されることが多い。
3. 対馬国(つしまこく):長崎県対馬に比定される。
4. 卑狗(ひこ/ひく):地方首長に相当する倭の官職名。意味は明確ではないが、倭の階層的支配構造を示す語と考えられている。
5. 卑奴母離(ひぬもり):卑狗の補佐官とされるが、具体的な役割は不詳。
6. 一大国(いちだいこく):現在の壱岐島に比定される。
7. 末盧国(まつらこく):佐賀県唐津市周辺に比定されることが多い。
8. 伊都国(いとこく):福岡県糸島市付近に比定される。古代倭における外交の中継点として重要だったとされる。
9. 爾支・泄謨觚・柄渠觚:王の補佐官とされるが、役割や序列は不明。
10. 奴国(なこく):現在の福岡市博多区周辺とする説が有力。ただし春日市や大野城周辺説などもあり、比定には異説も存在する。
11. 多模(たも):奴国や不弥国で王に仕える長官の名称。意味は不明だが、共通の政治用語として用いられていた可能性がある。
12. 不弥国(ふみこく):宗像市から遠賀川流域にかけての地域に比定されるが、確定はしていない。
🏺弍:倭人の暮らしとまじないの世界
📜 本 文
倭の男子は年齢に関係なく、皆、顔に入墨をし、身体には文身(刺青)を施していた[※注1]。古くから中国に使節として赴く際には、自らを「大夫(たいふ)」と名乗っていた[※注2]。
かつて中国の夏王朝の少康という王の子が会稽(かいけい)に封じられた際、髪を切り、身体に文身を施して、蛟龍(こうりゅう)という水棲の怪物の害を避けたという言い伝えがある[※注3]。
現代の倭人も、水に潜って魚や貝を捕ることを好み、文身には水中の大魚や水禽を避ける呪術的な意味が込められていた。やがて、それは次第に装飾的な意味合いも持つようになった。文身の施し方は国によって異なり、左側に入れる国もあれば右側に入れるところもある。また大きく入れるか小さくするかも異なり、身分によってその差が設けられていた。彼らが住む場所を中国の地理で測ると、会稽のさらに東、東冶(とうや)の東方にあたると考えられていた[※注4]。
倭人の風俗は、乱れているわけではなく、慎み深いものだった。男子は皆、髪を束ねて頭にそのまま出し、木綿のような布を使って頭に巻いていた[※注5]。衣服は幅のある布を使い、結び合わせて仕立てられており、ほとんど縫製はなかった。女性は髪を垂らして束ね、一枚布を使ったような衣を着ていた。その衣の中央に穴を開けて頭を通し、被るようにして着ていた。
穀物としては、アワやイネ、カラムシやアサを栽培していた。養蚕も行われ、カイコとクワを育て、糸を紡いでいた。そこから細かなカラムシ布や絹織物が生産されていた[※注6]。
この地には、牛や馬、虎や豹、羊やカササギはいなかった。戦闘には、矛や盾、木製の弓が用いられていた。その弓は独特な形状で、下が短く、上が長く作られていた。矢は竹で作られ、先端には鉄製か骨製の鏃(やじり)が付けられていた。こうした装備は、海南島の儋耳(たんじ)や朱崖(しゅがい)とは異なる特徴を持っていた。
倭の地は温暖で、冬でも夏でも生の野菜を食べていた。人々は皆、裸足で生活していた[※注7]。住居はあり、家族であっても、父母や兄弟はそれぞれ別の場所で眠っていた。彼らは身体に朱や丹の顔料を塗っており、それは中国で白粉を使うような感覚だった。食事や飲み物は、脚付きの食器「籩(へん)」や「豆(とう)」を使い、手で食事をしていた。
死者には棺が用いられたが、外側の棺(槨)はなかった。墓は土を盛って塚を作る形式である。死後は十日以上にわたり遺体を安置し、その間、肉は食べなかった。喪主は泣き、周囲の人々は歌や踊り、酒宴によって別れを惜しんだ。葬儀が終わると、家族全員が水辺に行って身体を清め、まるで洗い清めの儀礼(練沐)を行うようにした。
また、倭人が中国に使節を送り出す際には、必ずひとりの者を選び、その者は「持衰(じすい)」と呼ばれた[※注8]。彼は髪を梳かさず、シラミを取ることもせず、衣服は垢で汚れ、肉を口にせず、女性にも近づかず、まるで喪に服しているような姿をしていた。こうした姿には、神聖な力を宿すと信じられていた。もし旅が順調に終われば、彼は尊重されたが、病気や災難に遭うと、持衰が不謹慎だったとして命を奪われることすらあった。
真珠や青玉が採れる場所もあり、山には丹(赤い顔料)を含む鉱石が見られた。樹木としてはナンノキ、チョ、ヨショウ、ジュウ、レキ、トウキョウ、ウゴウ、フウコウなどが生えていた。竹にはショウ、カン、トウシなどがあり、植物としてはショウガ、ミカン、ハジカミ、ジョウカ(にんにくの一種)などもあったが、それらを味つけや調味料として使うことはなかった。動物としては、ケンコウ(長尾の猿)や黒雉などもいた。
倭人が祭祀や重要な決断を行う際には、必ず骨を焼いて占いを行い、吉凶を占った。あらかじめ質問の内容を定めてから占いをし、龜卜(きぼく)と同様に、その割れ目の形を見て兆しを読み取っていた。
彼らが会議や集まりの場で着席したり立ち上がったりするときには、父子や男女の区別はなかった。人々は酒を好み、よく飲んだ。目上の者や敬意を示す相手に対しては、跪く代わりに手を打って礼を示した[※注9]。
また、長寿の者も多く、百歳を超える人もいれば、八十代、九十代まで生きる者もいた。
社会制度にも特徴があり、身分の高い者は四〜五人の妻を持ち、下層の者でも二〜三人の妻を持っていた。女性は貞淑で、淫らな振る舞いや嫉妬、盗みはなく、訴訟ごとも少なかった。
犯罪に対しては厳しい罰則があり、軽い罪でも妻子を没収され、重罪となれば一族や親類まで処罰の対象となった。社会には厳格な身分秩序が存在し、それに従って人々は臣従していた。
各国には租税を集める制度や、物資を保管する倉庫(邸閣)があり、また、それぞれの国に市場が設けられていて、物々交換や売買が行われていた。これらの市場には「大倭(たいやまと)」と呼ばれる中央の監督官が派遣され、取り引きの監視にあたっていた[※注10]。
🧾注記一覧
1. 黥面・文身(けいめん・ぶんしん):顔や身体に入墨を施す習俗。倭では呪術的・社会的意味を併せ持つ。
2. 大夫(たいふ):中国への使節が用いた自称。格式ある身分名とされる。
3. 夏后少康・蛟龍(かこうしょうこう・こうりゅう):古代中国伝説の王と水の魔物。倭人の風習と神話の類似を示唆。
4. 会稽・東冶(かいけい・とうや):いずれも中国江南地方の古地名。倭の位置がここから見て東方とされる。
5. 木緜(もくめん):木綿と記されているが、当時の倭に綿花は伝来しておらず、麻布や樹皮布とする説もある。
6. 紵・縑・緜(からむし・きぬ・わた):いずれも布の種類。麻布・絹織物・綿布などを指す。
7. 徒跣(とはだし):裸足で生活すること。南方的な風俗とされる。
8. 持衰(じすい):旅の安全を祈って選ばれる喪服の代表者。災厄時の責任転嫁対象にもなる。
9. 搏手(はくしゅ):ひざまずく代わりに手を打って敬意を表す儀礼的所作。倭における礼の形式とされる。
10. 大倭(たいやまと):市場監督者の称とされるが詳細不詳。一説に女王国が派遣する中央官と見られる。
🏺参:卑弥呼の時代の倭国 〜 内政と魏との外交
📜 本 文
女王国より北の地域には、「一大率(いちだいそつ)」と呼ばれる特別な監察官が置かれていた[※注1]。この役職は倭国各地の諸国を監督する権限を有していた。諸国の人々はその存在を畏れ敬い、強い影響力を持っていたことがうかがえる。
この一大率は、伊都国(いとこく)に常駐しており、当地におけるその立場は、魏における「刺史(しし)」[※注2]のようなものとされていた。中央政権から派遣され、地域統治を担う存在である。
倭王が魏の都や帯方郡、または諸韓国へ使者を派遣する際、あるいは帯方郡から倭国に使者が訪れる際には、いずれも港で「臨津搜露(りんしんそうろ)」という手続きが実施された[※注3]。これは津(港)で行われる検問や監査にあたり、文書や贈与品の内容を厳密に確認し、それらが正確に女王のもとへ届くように配慮されていた。
民のあいだには、厳格な上下関係が存在していた。身分の低い者が身分の高い者と道で出会うと、道を避け、草むらに身を隠すことが礼儀であった。言葉を伝えたり用件を説明したりする際には、地面に膝をついて身を低くし、両手を地につけて丁重に挨拶をした。そして返答の際には「噫(い)」という声を発して相手に同意の意を表した。これは、儀礼的な肯定表現として用いられていた[※注4]。
もともと倭国では、男子が王となるのが慣例であった。しかし、七、八十年にわたる内乱により国は荒廃し、諸国は互いに争い続けた。こうした状況を収束させるため、人々は一人の女性を共に推戴して王とした。その名を卑弥呼(ひみこ)[※注5]という。
卑弥呼は「鬼道(きどう)」に仕え[※注6]、呪術的な権威をもって人々を導いた。彼女は年老いた独身の女性であり、夫はおらず、弟が政治を補佐していた。王に就いて以降は、ほとんど人前に姿を現さなかった。
彼女は常に千人の侍女を従え、身辺の世話をさせていた。ただし、側には男性が一人だけ仕えており、その者が飲食を供し、言葉を伝え、出入りを管理していたという。
卑弥呼の宮殿は壮麗であり、高楼や櫓(やぐら)、城柵によって厳重に囲まれていた。常に武器を持った人々が配置され、厳しく守られていた[※注7]。
女王国からさらに東へ海を越えること千余里のところには、また別の国々があり、いずれも倭種とされていた。さらにその南方には、侏儒国(しゅじゅこく)という国があり、住人の身長は三、四尺(約90〜120cm)とされ、女王国からは四千余里の距離にあった。
また、そのさらに東南には、裸国・黒歯国(こくしこく)という国々があり、これらは船で一年かけて行くほど遠方にあった。こうした記録は、当時の人々が把握していた「倭国の外縁部」に関する情報を反映している[※注8]。
倭国の地理について尋ねると、そこは大海の中に点在する島々の上にあるとされ、ある島々は切り離されて孤立し、またある島々は連なっており、国土を巡れば全体で五千余里になるとも伝えられていた。
魏の景初二年(西暦238年)六月、倭女王卑弥呼は、大夫の難升米(なしょうまい)らを帯方郡に派遣し、天子に朝貢したいと願い出た。これに応じて、帯方太守の劉夏(りゅうか)は役人を同行させ、彼らを魏の都へ送り届けた。
その年の十二月、魏は正式な詔書をもって卑弥呼に応え、彼女を「親魏倭王」と認定し、金印紫綬(きんいんしじゅ)を授けた[※注9]。また、難升米らが献上した生口(せいこう)男女十人や斑布などの献品を正式に受理した。
詔書では、遠方からの忠誠心を賞賛し、「卑弥呼の忠孝を哀れむ」と記されている。また、難升米を「率善中郎将(そっぜんちゅうろうしょう)」、都市牛利(としぎゅうり)を「率善校尉(こうい)」に任命し、それぞれ銀印青綬を授与して帰国させた[※注10]。
さらに魏は、絳地(こうじ)の交龍錦・織成錦や赤青の絹布、白絹、金、五尺刀、銅鏡、真珠、鉛丹などを贈与し、これらを帯方郡経由で卑弥呼に届けさせた。贈与の意図は、倭国内の民にも魏の恩徳を知らしめるためとされている。
翌・正始元年(240年)、帯方太守の弓遵(きゅうじゅん)らは詔書と印綬を奉じて倭国を訪れ、卑弥呼を形式的に王に封じたうえで、金帛や刀剣、鏡、錦罽(きんけい)などを授与した。
その後、倭王は使節を再び派遣し、詔恩への感謝を表する上表文を奉じた。正始四年には、大夫の伊聲耆(いせいき)、掖邪狗(えきやく)ら八人を送り、生口や倭錦、赤青の絹布、布帛、鉛丹、木弓や矢などを献上した。
掖邪狗は、このとき「率善中郎将」として正式に叙任された。
正始六年には、魏より再び詔が下り、難升米に対して黄幢(こうどう)[※注11]が賜与され、それが帯方郡を通じて倭に届けられた。
正始八年、帯方郡太守として王頎(おうき)が着任した。そのころ、卑弥呼は狗奴国(くぬこく)の男王・卑弥弓呼(ひみここ)との関係がもともと良くなく、争いが生じていた。
卑弥呼は倭の載斯(さいし)・烏越(うえつ)らを郡に派遣し、両者の戦況を報告した。
これを受けて魏は、塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)らを派遣し、詔書と黄幢を携えて再び難升米を仮授任命した。あわせて「檄文(げきぶん)」を発し、狗奴国側への公式な布告とした[※注12]。
やがて卑弥呼が死去すると、その墓は大いに築かれ、径百余歩の大きさに及んだ。さらに、殉葬(じゅんそう)として百余人の奴婢がともに葬られたと記録されている。
🧾注記一覧
1. 一大率:倭の北辺支配と外交を監督する監察官的な役職。
2. 刺史:魏における地方行政の監察官。中央政権の代理として広範な権限を持つ。
3. 臨津搜露:港での検問・監査手続き。外交使節や贈与品の管理に関わる制度。
4. 「噫」:儀礼的な肯定返答。「はい」に相当し、倭の礼制を象徴する語。
5. 卑弥呼:倭国における女王。宗教的権威と政治的統治を兼ね備えた存在。
6. 鬼道:神霊との交信を通じて政治的支配を可能にした呪術体系。
7. 宮室楼観城柵:王の住居とその防衛施設。軍事的・宗教的権威の象徴。
8. 異境情報:侏儒国・裸国・黒歯国など、遠方とされた地域の伝聞的記述。
9. 親魏倭王:魏から卑弥呼に与えられた称号。冊封体制の一環。
10. 率善中郎将・校尉:魏の名誉的軍官位。外交使節への称号授与。
11. 黄幢:軍の象徴旗。皇帝の命令・認可を示す威信の証。
12. 檄:命令や主張を広く布告する公式文書。外交的威圧の手段でもあった。
🏺四:卑弥呼の死後の倭国 〜 戦乱と魏国との外交
📜 本 文
卑弥呼の死後、新たに男王が立てられたが、国内はこれに服さず、反乱が相次ぎ、互いに殺し合う混乱状態となった。結果として、当時、千人を超える死者が出たと記されている[※注1]。
その後、卑弥呼の一族である宗女・壱与(いよ)[※注2]が再び女王として立てられた。彼女は十三歳で王に即位し、それをもって国中はようやく安定した。
魏の官吏・張政(ちょうせい)らは、魏からの詔命を「檄(げき)」として壱与に伝えた。壱与はこれに応え、倭の大夫であり「率善中郎将」の称号を持つ掖邪狗(えきやく)をはじめとする二十人の使節団を派遣し、張政らを丁重に送り返した。
あわせて彼らは魏の朝廷を訪れ、男女三十人の生口(せいこう)をはじめとして、白珠五千孔、青色の大型勾玉二枚、多彩な文様をもつ織物二十匹を献上した[※注3]。
『魏志倭人伝』の末尾には、これら一連の記録を編纂するにあたっての「評(ひょう)」[※注4]が記されている。
いわく──かつての史書『史記』や『漢書』には、朝鮮や兩越(りょうえつ)[※注5]の記録が残されており、後漢の都・洛陽では西方の異民族・西羌(せいきょう)について編纂された。
魏の時代には、北方の強国であった匈奴が衰退し、新たに烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)といった勢力が台頭した。こうした情勢の変化を受け、魏はついに東方の辺境、すなわち東夷(とうい)にまで関心を広げるようになった。
通訳を用いながら、時には使者を通じて交流し、そうした実際の往来に基づいて記録が蓄積された。まさに「事にしたがって記述する」という態度であり、断片的ではない、継続的で具体的な外交記録が成されたのである。
ああ、これほどまでに異民族との関係が深く、実務的に記されたことが、歴史上、常であったろうか。いや、それは異例のことであった──と、編者は述べている。
🧾注記一覧
1. 男王と内乱:卑弥呼死後の混乱は、女王の宗教的・政治的権威の強さを物語る。男王では国がまとまらなかったことが記録されている。
2. 壱与(いよ):卑弥呼の一族とされる少女王。十三歳で即位し、倭国内の安定を回復した。
3. 献上品:生口(奴婢・捕虜)や真珠、勾玉、織物などは、いずれも象徴的・威信的意味を持つ献上物である。
4. 評曰(ひょうえつ):『魏志倭人伝』末尾の評価文。倭を含む東夷との関係が、いかに異例で画期的であったかを強調している。
5. 兩越(りょうえつ):閩越(びんえつ)・南越(なんえつ)など、中国南部の異民族を指す。秦・漢時代に支配対象とされた。
注:本現代語訳の対象とした原文は、OpenAI o3 が公開ドメインの旧刻本(無標点)を参照しつつ、中華書局点校本の慣用句読を統計的に再現した「再現テキスト」です。校訂精度は保証されません。引用・転載の際は必ず一次資料で照合してください。
次節では、ここまでの現代語訳に基づく文意の把握を起点としつつ、各語句や文構造の異同に着目し、複数の写本や諸本の間で生じている違いを精査します。
それにより、『魏志倭人伝』という一つの「記録」が、どのように形を変えつつ伝えられてきたのか、その“揺れ”と“残響”の歴史を辿っていきます。
(本文ここまで)
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