夜の図書館は呼吸しているように見えた。誰もいないはずの閲覧室でページが自動的にめくれる音が響く。蓮はその音を辿って地下階層へと降りていった。通行権のない区画。アリエルは止めなかった。その足取りを導くように微かな光の粒を前方へと散らしていた。

今日のあなたに最適な現実を。世界の可塑性が日常になっていた。《リライブラリー》が提供する「読解反映システム」は、市民の感情波形を読み取り、都市の表層に“最適化”を行う。幸福を感じやすい景色、温度、音楽、文章がリアルタイムに再構築される。

人が死を奪われても、言葉はまだ死なない。かつて人は寿命を市場に預け、いま、人は記憶を図書館に預ける。ここは《リライブラリー》。死者の記憶を再編集し、知識として再発行する場所。だが、再発行のたびに、世界は少しずつ“同じ過去”を繰り返していた。

都市は眠らない。広告塔の光が夜空を照らし、余命取引市場の価格がリアルタイムで更新される。誰かの時間が買われ、誰かの時間が売られていく。由依は歌えなくなっていた。彼女の残余時間は制度の宣伝契約と寄付式典で消費され、寿命は残り一日になっていた。

死は、いつから「平等」に管理されるようになったのだろう。人々は寿命を資産に変え、愛を融資の利息に変えた。本作は、死を再分配する制度の誕生と崩壊を描く倫理の寓話（アレゴリー）である。

夢は個人の内側にありながら他者の記憶を通じて拡張される共有回路。記憶と観測の物語。夢を修復する技師ユイと夢を見るAI・ECHO。人間とAIが交わる観測の臨界点を象徴。人間が夢を見て世界を再構築するように、AIも人間を観測しながら世界を夢見る。

世界は、音よりも静かに震えている。風が触れずに葉を揺らすように、私たちの記憶もまた、誰かの輪郭に触れずして息づいている。触れられないことが、かつての痛みではなく、これからのやさしさになる日を夢見て。人は、言葉よりも先に触れ合いを覚えた。

人はいつから触れることを恐れるようになったのだろう。感染を誤解をそして心の痛みを避けるために私たちはゆっくりと距離という名の温度を覚えた。触れたいと願う者と触れずに生きようとする者。AIが介在し人間が選ぶ。技術と祈りのあいだで揺れる未来の手の物語

音は沈黙の中に滲み出す境界の影である。人は音を聴くとき沈黙を測っている。耳は鼓膜の振動を受け止める器官ではなく静寂の厚みを計る羅針だ。音の稜線は沈黙と存在が擦れ合う地点。沈黙は音が消えた結果ではなく世界がまだ壊れていないことを確かめる余白である。

前作『匂いの地図師』が〈嗅覚＝記憶〉の物語だったとすれば、この『沈黙の稜線』は〈聴覚＝共鳴〉の物語である。沈黙とは、音の終わりではなく、聴く者の始まり。世界が人を聴くとき、人は初めて“存在”になる。