人はいつから触れることを恐れるようになったのだろう。感染を誤解をそして心の痛みを避けるために私たちはゆっくりと距離という名の温度を覚えた。触れたいと願う者と触れずに生きようとする者。AIが介在し人間が選ぶ。技術と祈りのあいだで揺れる未来の手の物語

音は沈黙の中に滲み出す境界の影である。人は音を聴くとき沈黙を測っている。耳は鼓膜の振動を受け止める器官ではなく静寂の厚みを計る羅針だ。音の稜線は沈黙と存在が擦れ合う地点。沈黙は音が消えた結果ではなく世界がまだ壊れていないことを確かめる余白である。

前作『匂いの地図師』が〈嗅覚＝記憶〉の物語だったとすれば、この『沈黙の稜線』は〈聴覚＝共鳴〉の物語である。沈黙とは、音の終わりではなく、聴く者の始まり。世界が人を聴くとき、人は初めて“存在”になる。

視覚中心の都市理解に対する小さな反論として構想した。嗅覚は主観的で、数値化が難しい。入口の派手さよりも、出口のやさしさが人をつなぎ直す。その仮説を、老地図師と若い焼き手に託した。あなたの街にも、きっと一本、忘れられた「匂いの経度線」が通っている。

同じ道でも、朝のパンの匂いが消えると、そこはもう別の国になる。都市は視覚で覚えるものだと、わたしたちは思い込んでいる。だが、街路の正確さは、ときに人の心を置き去りにする。福岡の下町でひっそりと暮らす初老の地図師・稜は、嗅覚で街を測る異端の職人だ。

観測史上、誰も見たことのない“光”だった。太平洋の中央部、地図にはただの海と記されている地点で──最新の量子干渉観測衛星が、数値上は存在しないはずの層を検出した。「海の下に……何かがある？」報告を受けた国際探査機構は、緊急の調査を決定。

「夜空」とは何か。「観測」とは、そして「沈黙」とは何を意味するのか。「私たちが“夜空”と呼ぶものは、実在宇宙のごく薄い表示層にすぎない。星喰は、その表示層そのものが一時的に剪断されるときに起きる。」仮説メモ「観測層剪断と光情報移送」より（未刊）

対話の始まりを経て、議論は「研究会」という舞台の山場へと向かう。科学と伝承、記録と詠──異なる言葉たちが交わる夜が始まる。夜の道が裂け、星々は沈黙した。声なき声は、幕の裏に、眠る言葉を抱いている。

あの夜から、時が経った。星が消えた空を見上げた者たちは、それぞれの言葉で夜を記した。観測者として、記録者として──マリア。詠い手として、伝承の守り手として──ワイラ。これは、二人が共に編んだ「記録」の始まりである。

夜空が消えた。その報せは、最初、誰も信じなかった。アンデスの山々に抱かれた小さなリュミナ村。かつて空を読む民として知られたこの村に、ある年の初夏、星喰と呼ばれる事件が起きた。後に世界の天文学者たちが、この夜の観測データに釘付けになることになる。