「同じ道でも、朝のパンの匂いが消えると、そこはもう別の国になる」
都市は視覚で覚えるものだと、わたしたちは思い込んでいる。だが、街路の正確さは、ときに人の心を置き去りにする。福岡の下町でひっそりと暮らす初老の地図師・稜(りょう)は、嗅覚で街を測る異端の職人だ。ある朝、長年続いたパン屋の香りが突然地図から消える。匂いは地震計より先に、街の異変を告げる。稜は鼻を羅針盤に、消えた香りの向こう側にある「誰かの決断」を追い始めた。
一 路上の初動
夜明けの風が川べりを這い、古い橋の下で湿った藻の匂いを起こす。稜は鼻の内側をひとつ叩くように息を吐いた。嗅覚は筋肉ではないが、立ち上げの儀式が要る。左ポケットの小さな冊子に、今朝の基準匂いを書き入れる。
〈基準:川苔2、朝露1、軽油0.5、焼き立てイースト3(消失)〉
最後の三文字が、稜の指を止めた。イーストの3は、十年以上この街区の朝を支えてきた「麦枝堂」のものだ。開店前に空気へ先行する温い香り──小麦、酵母、ほんの少し焦げ手前の糖化。それが、無になっている。
稜は腕時計のベゼルをやや右へ回し、鼻先を北へ向けた。嗅覚地図師の方位磁針は、鼻腔と記憶だ。道路標示の矢印は視覚のためにある。鼻のための矢印は、誰も描いてくれない。だから彼は毎朝、自分で描く。
角を曲がる。魚の干物を焼く匂いがまだ立たないのは時刻的に当然。揚げ油は古い油脂の甘さを含んでいない。前夜は閑散だったのか。だが、麦枝堂の予兆だけは、いつもこの位置で風に挟まっていた。川面からの上昇気流がビルの角で跳ね、店の裏口から漏れる温気を梳(す)いて、一度だけ稜の鼻へ触れる。その触れ方が今朝はない。
〈異常:イーストの影、なし〉
稜は裏通りの壁に手を添え、微かに鼻孔で壁面の呼吸を読む。コンクリートにも記憶はある。昨日まで、毎朝五時半にここを通った香りが、壁に染み込む。微量だが、消せない。ところが、匂いの遺骸もない。完全に、昨日より前から時間が折れている。
「臨時休業じゃない。匂いの断絶だ」
地図師の独白は、地震学者のそれに似る。「ない」はいつも、「あった」の別名だ。
二 匂いの断層
表通りに出ると、麦枝堂のシャッターは半分まで降りていた。張り紙は風にめくれ、端に小さく「事情」とだけ読める。誰かが説明したくなくて、しかし沈黙ではいられず、抽象名詞で逃げたのだ。
稜は張り紙の紙質を嗅ぐ。漂白の残香、書き置き用の廉価紙。インクは熱で浮くタイプ、コンビニの簡易プリント。つまり、突然の判断。計画された閉店なら、もっと重い用紙を使う女将(おかみ)の几帳面さを、稜は知っている。
裏口に回ると、若い女が段ボールを抱えて出てきた。麦枝堂のパート、陽(よう)だ。稜は会釈だけして問わない。嗅ぐ。段ボールの隙間から、小麦粉の微粉と砂糖。だが、粉の匂いには湿度の記憶がない。新しい粉ではない。撤収の匂いだ。
「……地図、また描いてるの、おじさん」
陽が先に口を開いた。稜は笑う。
「地図は勝手にできる。私はただ、街に鉛筆を貸しているだけだ」
「うちの、終わっちゃったよ。ね、ここ、朝になるとパンの匂いがして、みんな早起きできてたでしょ。これからどうやって起きるのかな」
陽は冗談めかして笑ったが、声の奥に紙を破く音がした。
「起きられなくなったら、別の匂いが誰かを起こす。匂いの時計は、一つが止まると別の針が動く」
「じゃあ、おじさんの地図も、描き直しだね」
「描き直しは好きだ。問題は、理由だ。匂いが消える理由はいつも二つ。人が去るか、人が隠すか。どちらだろう」
陽の目が一瞬泳いだ。稜はそれを見ないふりをして、鼻に集中する。女の袖口に、街で嗅がない香辛料の影。カルダモン。ここらの惣菜屋では使わない。パン屋では、たまに。だが、この香りは焼きの温度からして異国のレシピの系譜だ。福岡の商店街にいまだ馴染みの薄い、あの国の朝の匂い。
〈補注:陽の袖=カルダモン+黒胡椒微量。混和比率より→カレーパンの進化系ではない〉
稜は問いを飲み込んだ。嗅覚は、相手の秘密を暴くより、相手が秘密を持てる空気を整えるために使いたい。
三 湿原のレッスン
稜が嗅覚の基礎を習ったのは、若い頃に通った湿原だ。地図会社の研修で半年、彼は北の湿地で風と水の層を学んだ。見た目は同じ草むらでも、甘い花粉の下に硫黄が眠る場所がある。足を一歩間違えれば、膝まで沈んで戻れない。そこで彼は知ったのだ。世界は匂いの層でできている。
都市は湿原より複雑だ。人が立てる匂いの層は、意匠や遠慮で覆われる。だが、覆いは必ず薄いところから剥がれる。剥がれ目は、ある朝のパンの匂いが消える線として現れる。
稜は商店街の端にある自販機の陰で立ち止まった。金属の熱、コーヒーの人工バニラ、プラスチックの微かな崩壊臭。その向こうに、トマトの青臭さが漂う。朝市だ。彼はそこに寄ることにした。パンが消えた朝は、別の食べ物に話を聞くのがよい。

市場の片隅で、よれたコックコートの老人が香草を並べていた。バジル、ミント、謎の葉。老人の指は香りを潰さない動きで葉を束ねている。稜が近づくと、老人は先に言った。
「麦枝堂が閉まった。焼き手がいなくなれば、釜はただの置物だ」
「知っているのですか」
「匂いで分かるだろう。お前さんは鼻の人だ」
「誰でも、今朝は分かるでしょう」
老人は笑って、束の間、握っていたバジルを持ち上げ、稜の鼻に近づけた。強烈な青の爆発。だが最後に、甘さが少し残る。
「いいか、匂いには入口と出口がある。入口は派手でもよい。出口は相手に委ねる。パン屋の匂いは、いつも出口がよかった。鼻孔から脳に降りるところで、ひとつだけ扉を開けてくれる。そういう匂いは、人を裏切らない」
「今朝は扉ごと無くなった」
「扉はいつも、人が持っていく。鍵もね」
老人はそう言って、束ねた香草に見慣れない葉を一本挟んだ。甘さと苦味のまじる、地中海の匂い。ルーか、と稜は内心で言う。日本での名はヘンルーダ。魔除けに使う。市場でこれを置くのは珍しい。
「店を畳むとき、人は魔を数える」
老人の言葉に、稜は頷いた。魔を数える人は、たいてい自分へかけられた魔も数える。
四 陽の秘密
夕暮れ、稜は路地の奥で、陽が古い台車に荷を積むのを見つけた。段ボールの上に、黒い石が三つ。溶岩石だ。熱を蓄え、パン生地の底を均一に焦がすための道具。石の表面に残る微量の脂を嗅いで、稜は一つの確信を得た。麦枝堂の釜は、まだ二日前まで生きていた。
「おじさん」
陽が先に気づいた。「手伝いますか」と稜が言うと、陽はゆっくりと首を振った。
「ねえ、匂いで全部分かるなら、言って。あたしが何をしようとしてるか」
「匂いは、全部は教えてくれないよ。選ばせるだけだ」
「じゃあ、選んで」
夜風が高架の隙間を通り、アスファルトの熱を剥いた。稜は静かに口を開いた。
「君は、ここから離れる匂いを纏っている。カルダモンと黒胡椒の混ざり方が、この街の誰とも違う。あれは、沿岸の市場の配合だ。出港前の港で、油を節約する屋台に貼り付く匂い。引っ越すんだね」
陽は目を見開いて笑った。
「参ったな、おじさん。そう、海の向こう。母親の国。向こうで屋台を出すの。パン屋の女将さんが背中を押してくれた」
「女将は?」
「病気。突然悪くなって、釜を守る力がなくなった。あの人はね、最後の日に言ったの。『香りは国境を越える』って。だから、道具を持って行けって。釜の代わりに、石だけでも持って行けって」
陽は台車を撫でた。「でも、向こうじゃあたし、よそ者なんだよ。匂いは越えるけど、人はどうか分かんない」
稜は頷いた。匂いは国境を測らない。鼻は地図を持たない。それは欠点ではなく、救いだ。
「出る前に、ひとつだけ頼みがある。君が向こうで最初に焼くものを、ここで一度、焼いてくれ」
陽は眉を上げる。
「ここで?」
「釜は死んだ。だが、石は記憶する。石に、君の最初の朝を覚えさせて行きなさい」

〈後編に続く〉
🗒️ 関連創作ノート等
👉『匂いの地図師』 創作ノート/随想
🌐 https://note.com/souu_ciel/n/n38667d1cb216
👉『匂いの地図師』創作ノート・裏話編 ― 創作の呼吸と、地図の外で見つけた道 ―
🌐 https://note.com/souu_ciel/n/n18fba56c6caf
👉 構造と呼吸 ― プロット主義を越えて ― 静かな挑戦としての詩 ―(エッセイ)
🌐 https://note.com/souu_ciel/n/nfd412e41a2a3
(本文ここまで)
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