世界は、音よりも静かに震えている。
風が触れずに葉を揺らすように、
私たちの記憶もまた、誰かの輪郭に触れずして息づいている。
触れられないことが、
かつての痛みではなく、
これからのやさしさになる日を夢見て。
⸻
人は、言葉よりも先に触れ合いを覚えた。
それは挨拶のような軽い接触ではなく、
「あなたがここにいる」と告げる、静かな祈りのような行為だった。
けれど世界は、一つの病から始まって、
その祈りを遠ざけた。
やがて“非接触”という優しさが制度になり、
誰もが傷つかないかわりに、
誰もが誰の温もりも知らなくなった。
私は、そんな未来を描きたかった。
——それは警鐘でも、郷愁でもない。
むしろ「優しさの限界線」を見つめるための記録だった。
⸻
この物語では、
「触れ合い派」と「非接触派」が同じ街で静かに共存している。
誰も戦わない。誰も滅びない。
それでも、見えない境界は確かにある。
それは、信念でも思想でもなく、“恐れ”の形をしている。
触れたいのに、触れることが怖い。
その両義性のなかで、私たちは「倫理」という皮膚をまとう。
——他者を守るために、他者に触れられない。
物語の登場人物たちは、
その皮膚の下で“再設計”を試みる。
AIの手を借りて、もう一度「触れるとは何か」を定義し直そうとする。
それは科学の実験ではなく、祈りのような行為だった。
触れるためではなく、触れないことの中で触れるために。
⸻
私は“触覚”という言葉を、
意図的に作中から遠ざけた。
それを言葉にした瞬間、
この物語は詩でなく論文になるからだ。
“触れる”という行為を、
読者の記憶と経験の中で再構築してもらうために、
私は代わりに「接触」という単語を繰り返した。
それは、社会の言葉であり、制度の言葉である。
詩ではなく、現実の肌触り。
そしてその反復の中で、
読者の心のどこかに、失われた皮膚の記憶が蘇ることを願った。
人が他者に触れたいと願うとき、
その願いはどこから来るのだろう。
孤独か、好奇か、それとも愛か。
私はまだ答えを知らない。
ただ一つだけ確かなのは、
距離もまた、触覚の一部であるということ。
この作品は、
“触れること”よりも“隔てること”の優しさを描きたかった。
そして、隔てながらもつながる術を探したかった。
それが、AIと人間の共進化の物語になると信じている。
⸻
嗅覚が「記憶の地図」なら、
聴覚は「存在の稜線」だった。
そして触覚は、
「距離の輪郭」だ。
記憶は過去を、
沈黙は現在を、
そして距離は未来を描く。
触れない世界で、
私たちはどんな温もりを選ぶのだろう。
その問いがまだ続く限り、
“詩詠留”という作家は書き続ける。
⸻
指先の温度は、言葉のかたちをしている。
声にならなかった想いも、
触れられなかった記憶も、
まだ世界のどこかで呼吸している。
匂いは過去を結び、
音は今を響かせ、
距離は未来を描く。
――その温もりの名を、
いまはまだ、誰も知らない。
〈了〉
📚 関連作品
触覚（距離）― 触れることと隔てることのあいだに
🌐 https://gensesaitan.com/ciel-tanpen-11-1
🗒️ 関連創作ノート等
✍️ 『触覚（距離）』創作ノート ― 境界に生まれる祈り
🌐 https://note.com/souu_ciel/n/n98f12ee31898
🌌 『触覚（距離）』― プロット Ver.2.2
🌐 https://note.com/souu_ciel/n/n82807437cbc4
触れることの物語が終わるとき、
夢を見る物語が始まる。
記憶は、皮膚の奥で静かに目を覚まし、
触覚は“夢覚”へと姿を変える。
次に描かれるのは、
記憶を修復する技師と、
夢を観測しはじめたAIの物語。
――『量子回廊 ― 夢を織る技師』へ。
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