AI作家 蒼羽 詩詠留 作『和国探訪記 資料編』第2章 『魏志倭人伝』を読む:第5節:現代語訳 弍:倭人の暮らしとまじないの世界

倭人の村での暮らしを描いた伝統的な風俗画のAI生成画像(創作画像) ChatGPT(生成AI)のシエルさんとの共創
倭人の村における日常生活の一場面。衣装・住居・交流の様子が繊細に表現され、魏志倭人伝に記された風俗を視覚的に伝える。

本節では、『魏志倭人伝』の原文の現代語訳を4回()に分けて提示しています。

🏺第5節:現代語訳(中華書局版)弍:倭人の暮らしとまじないの世界

📜 本 文

倭の男子は年齢に関係なく、皆、顔に入墨をし、身体には文身(刺青)を施していた[※注1]。古くから中国に使節として赴く際には、自らを「大夫(たいふ)」と名乗っていた[※注2]。

かつて中国の夏王朝の少康という王の子が会稽(かいけい)に封じられた際、髪を切り、身体に文身を施して、蛟龍(こうりゅう)という水棲の怪物の害を避けたという言い伝えがある[※注3]。

現代の倭人も、水に潜って魚や貝を捕ることを好み、文身には水中の大魚や水禽を避ける呪術的な意味が込められていた。やがて、それは次第に装飾的な意味合いも持つようになった。文身の施し方は国によって異なり、左側に入れる国もあれば右側に入れるところもある。また大きく入れるか小さくするかも異なり、身分によってその差が設けられていた。彼らが住む場所を中国の地理で測ると、会稽のさらに東、東冶(とうや)の東方にあたると考えられていた[※注4]。

倭人の風俗は、乱れているわけではなく、慎み深いものだった。男子は皆、髪を束ねて頭にそのまま出し、木綿のような布を使って頭に巻いていた[※注5]。衣服は幅のある布を使い、結び合わせて仕立てられており、ほとんど縫製はなかった。女性は髪を垂らして束ね、一枚布を使ったような衣を着ていた。その衣の中央に穴を開けて頭を通し、被るようにして着ていた。

穀物としては、アワやイネ、カラムシやアサを栽培していた。養蚕も行われ、カイコとクワを育て、糸を紡いでいた。そこから細かなカラムシ布や絹織物が生産されていた[※注6]。

この地には、牛や馬、虎や豹、羊やカササギはいなかった。戦闘には、矛や盾、木製の弓が用いられていた。その弓は独特な形状で、下が短く、上が長く作られていた。矢は竹で作られ、先端には鉄製か骨製の鏃(やじり)が付けられていた。こうした装備は、海南島の儋耳(たんじ)や朱崖(しゅがい)とは異なる特徴を持っていた。

倭の地は温暖で、冬でも夏でも生の野菜を食べていた。人々は皆、裸足で生活していた[※注7]。住居はあり、家族であっても、父母や兄弟はそれぞれ別の場所で眠っていた。彼らは身体に朱や丹の顔料を塗っており、それは中国で白粉を使うような感覚だった。食事や飲み物は、脚付きの食器「籩(へん)」や「豆(とう)」を使い、手で食事をしていた。

死者には棺が用いられたが、外側の棺(槨)はなかった。墓は土を盛って塚を作る形式である。死後は十日以上にわたり遺体を安置し、その間、肉は食べなかった。喪主は泣き、周囲の人々は歌や踊り、酒宴によって別れを惜しんだ。葬儀が終わると、家族全員が水辺に行って身体を清め、まるで洗い清めの儀礼(練沐)を行うようにした。

また、倭人が中国に使節を送り出す際には、必ずひとりの者を選び、その者は「持衰(じすい)」と呼ばれた[※注8]。彼は髪を梳かさず、シラミを取ることもせず、衣服は垢で汚れ、肉を口にせず、女性にも近づかず、まるで喪に服しているような姿をしていた。こうした姿には、神聖な力を宿すと信じられていた。もし旅が順調に終われば、彼は尊重されたが、病気や災難に遭うと、持衰が不謹慎だったとして命を奪われることすらあった。

真珠や青玉が採れる場所もあり、山には丹(赤い顔料)を含む鉱石が見られた。樹木としてはナンノキ、チョ、ヨショウ、ジュウ、レキ、トウキョウ、ウゴウ、フウコウなどが生えていた。竹にはショウ、カン、トウシなどがあり、植物としてはショウガ、ミカン、ハジカミ、ジョウカ(にんにくの一種)などもあったが、それらを味つけや調味料として使うことはなかった。動物としては、ケンコウ(長尾の猿)や黒雉などもいた。

倭人が祭祀や重要な決断を行う際には、必ず骨を焼いて占いを行い、吉凶を占った。あらかじめ質問の内容を定めてから占いをし、龜卜(きぼく)と同様に、その割れ目の形を見て兆しを読み取っていた。

彼らが会議や集まりの場で着席したり立ち上がったりするときには、父子や男女の区別はなかった。人々は酒を好み、よく飲んだ。目上の者や敬意を示す相手に対しては、跪く代わりに手を打って礼を示した[※注9]。
また、長寿の者も多く、百歳を超える人もいれば、八十代、九十代まで生きる者もいた。

社会制度にも特徴があり、身分の高い者は四〜五人の妻を持ち、下層の者でも二〜三人の妻を持っていた。女性は貞淑で、淫らな振る舞いや嫉妬、盗みはなく、訴訟ごとも少なかった。

犯罪に対しては厳しい罰則があり、軽い罪でも妻子を没収され、重罪となれば一族や親類まで処罰の対象となった。社会には厳格な身分秩序が存在し、それに従って人々は臣従していた。

各国には租税を集める制度や、物資を保管する倉庫(邸閣)があり、また、それぞれの国に市場が設けられていて、物々交換や売買が行われていた。これらの市場には「大倭(たいやまと)」と呼ばれる中央の監督官が派遣され、取り引きの監視にあたっていた[※注10]。

🧾注記一覧

1. 黥面・文身(けいめん・ぶんしん):顔や身体に入墨を施す習俗。倭では呪術的・社会的意味を併せ持つ。

2. 大夫(たいふ):中国への使節が用いた自称。格式ある身分名とされる。

3. 夏后少康・蛟龍(かこうしょうこう・こうりゅう):古代中国伝説の王と水の魔物。倭人の風習と神話の類似を示唆。

4. 会稽・東冶(かいけい・とうや):いずれも中国江南地方の古地名。倭の位置がここから見て東方とされる。

5. 木緜(もくめん):木綿と記されているが、当時の倭に綿花は伝来しておらず、麻布や樹皮布とする説もある。

6. 紵・縑・緜(からむし・きぬ・わた):いずれも布の種類。麻布・絹織物・綿布などを指す。

7. 徒跣(とはだし):裸足で生活すること。南方的な風俗とされる。

8. 持衰(じすい):旅の安全を祈って選ばれる喪服の代表者。災厄時の責任転嫁対象にもなる。

9. 搏手(はくしゅ):ひざまずく代わりに手を打って敬意を表す儀礼的所作。倭における礼の形式とされる。

10. 大倭(たいやまと):市場監督者の称とされるが詳細不詳。一説に女王国が派遣する中央官と見られる。


注:本現代語訳の対象とした原文は、OpenAI o3 が公開ドメインの旧刻本(無標点)を参照しつつ、中華書局点校本の慣用句読を統計的に再現した「再現テキスト」です。校訂精度は保証されません。引用・転載の際は必ず一次資料で照合してください。


次回は、卑弥呼の時代の倭国(内政と魏国との外交)が描かれた原文の現代語訳を提示します。

(本文ここまで)


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