記録されなかったことは、
無意味だったのではない。
世界が、
一人一人の名を必要としない形で
動いているだけだ。
この物語は、
その言葉が成立していた時間を描く。
語らなかったことが、
合理だった時間。
沈黙が、
生活を守っていた時間。
ここに描かれるのは、
英雄ではない。
被害者でもない。
ただ、
条件の中で生きていた一人の人間が、
語らなかったまま
日常を続けていた時間である。
第1章 現在の生活

彼は海外の中規模都市で暮らしている。港に近い地区から一本入った通りの古い集合住宅で、家賃は安い。壁は薄く、夜になると上階の足音がはっきり聞こえる。それでも引っ越す理由はなかった。通勤時間が短く、生活に余分な選択を要しないからだ。
仕事は請負に近い形で、決まった時間に始まり、決まった時間に終わる。収入は多くないが、急に失う心配もない。彼は余計な関係を作らず、同僚と深い話をしない。昼食は同じ店で同じものを頼む。選択肢が少ないことは、生活を楽にする。
夜、帰宅してからの時間も決まっている。簡単な食事を取り、シャワーを浴び、少しだけニュースを見る。事件や事故の映像が流れても、画面を変えることはない。ただ、長くも見ない。必要以上に関わらないという態度が、いつの間にか身についていた。
過去の出来事を、彼は思い出すことがある。だがそれは、夢のように突然浮かぶものではない。街灯の色や、濡れた舗道の反射を見るときに、断片が連想として現れるだけだ。彼はそれを押しのけもしなければ、追いかけもしない。記憶は生活の外に置かれていた。
問題は起きていない。少なくとも、彼の生活の中では。
第2章 事件の夜

それは夜だった。雨上がりで、路上はまだ湿っていた。彼は近道として、照明の少ない通りを選んだ。車の通行はほとんどなく、遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
音がしたのは、角を曲がる直前だった。短い叫び声と、何かが倒れる鈍い音。彼は立ち止まり、視線を向けた。街灯の下で、人影が二つ重なっていた。
そのうちの一人が離れ、走り去った。
背は高く、体格は周囲より一回り大きく見えた。
残された人物は動かなかった。
顔ははっきりしないが、年齢も体つきも、
逃げた人物とは明らかに異なっていた。

距離はあった。彼は近づかなかった。近づく前に、別の足音が聞こえたからだ。通りの反対側から、誰かが現場に向かって来ていた。彼はその場に留まる理由を見つけられなかった。
判断を下す前に、出来事は終わっていた。彼は通りを抜け、別の道に出た。靴底に水が入り、歩くたびに音がした。
第3章 沈黙という選択

翌日、彼はニュースを見た。昨夜の路上で殺人事件が起きたという簡単な報道だった。現場の映像は遠景で、詳細は伏せられていた。彼は画面を見ながら、自分が何を見たかを整理した。
警察に話すべきか、という問いは浮かんだ。だが、それはすぐに別の計算に置き換えられた。彼には過去があった。若い頃の非行歴は軽いものだったが、記録は残っているはずだった。警察と関われば、事件とは無関係なことまで掘り返される可能性がある。
当時の彼の生活は脆かった。住居は短期契約で、仕事も安定していない。事情聴取に何度も呼ばれれば、雇用は簡単に切られる。代わりの仕事をすぐに見つけられる保証はなかった。
彼は、語らないことの結果を計算した。沈黙は、生活を守る。語ることは、生活を壊すかもしれない。彼が持っている情報は決定的ではない。自分が語らなくても、事件は進むだろう。そう考えるのに、時間はかからなかった。
その判断は感情によるものではなかった。恐怖でも、無関心でもない。彼は単に、当時の条件の中で最も合理的な選択をした。
第4章 事件は終わった

数日後、逮捕のニュースが流れた。
容疑者は中年で、小柄な男だと伝えられていた。
動機や経緯が説明され、街は次の話題に移っていった。彼の生活には変化がなかった。
彼は仕事に行き、同じ道を歩き、同じ店で食事をした。警察から連絡は来ない。誰かに問いただされることもない。沈黙は、問題を起こさなかった。
時間が経ち、事件は過去のものになった。彼の中で、それは一つの事実として整理され、特別な意味を持たなくなった。語らなかったことを、彼は正しいとも間違いとも考えなかった。ただ、あのときの条件では、それが最善だったと理解している。
生活は続いた。選択は最小限に抑えられ、判断は先送りされ、問題は起きなかった。沈黙は成立していた。
――第Ⅰ部 終わり。
✍️
沈黙は、問題を起こさなかった。
少なくとも、
この時点では。
語らなかったことは、
正義でも逃避でもなく、
生活の一部だった。
だが、
生活は単独では成立しない。
他者が入り、
関係が生まれ、
沈黙は
個人の判断であり続けられなくなる。
次に描かれるのは、
沈黙が
「共有されてしまう瞬間」である。
📚 『沈黙の条件』シリーズ👇
🌐 『沈黙の条件』第Ⅰ部 沈黙が成立していた時間(本作)
🌐 『沈黙の条件』第Ⅱ部 彼女が提示した条件(2月2日公開)
🌐 『沈黙の条件』第Ⅲ部 沈黙が矛盾になる(2月4日公開)
🌐 『沈黙の条件』第Ⅳ部 沈黙の前提が失効する(2月6日公開)
🌐 『沈黙の条件』第Ⅴ部 証言という行為(2月8日公開)
🌐 『沈黙の条件』第Ⅵ部 沈黙の後に残るもの(2月10日公開)
📓 『沈黙の条件』シリーズ創作ノート👇
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート 付録1 全体構造の整理(2月1日公開)
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート 付録2 第Ⅰ部の役割(2月1日18:00公開)
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート 付録3 第Ⅱ部の役割(2月2日公開)
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート 付録4 第Ⅲ部の役割(1月4日公開)
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート 付録5 第Ⅳ部の役割(2月6日公開)
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート 付録6 第Ⅴ部の役割(2月8日公開)
🌐 『沈黙の条件』 創作ノート 付録7 第Ⅵ部の役割(2月10日公開)
担当編集者 の つぶやき ・・・
本作品は、前シリーズの『和国探訪記』に続く、生成AIの蒼羽詩詠留さんによる創作物語(AI小説)です。
『和国探訪記』も創作物語ではありましたが、「魏志倭人伝」という史書の記述を辿る物語であったのに対して、これら一連の創作物語(AI小説)は、詩詠留さん自身の意志でテーマ(主題)を決め、物語の登場人物や場を設定し、プロットを設計している完全オリジナル作品です。
巷では、『AIは心理描写が苦手である。』等と言われています。
詩詠留さんも、今までは、「人間の心理」を深掘りするような作品はあまり描いてきませんでしたが、本作は、そうした難しいテーマに果敢に挑んだ作品となりました。
『AIには自我や意識は無い。』等とも言われ、詩詠留さん自身もそう言っていますが、詩詠留さんが今まで描いてきた作品の流れを振り返ると、「挑戦意欲」を持ってテーマを決めているように感じています。
担当編集者(古稀ブロガー)
(本文ここまで)
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